アメリカ映画に見る未来の暗示

私は学生の時代から映画が好きで、時間を見つけては映画館に足を運んでいた。学生の時は お金がないので3本建てで1,000円を切るような場末の映画館通いだった。映画はジャンルを問わず何でも見た。あえて言うならオカルト映画はできるだけ避けたが。

ハリウッド映画はお金がかかっているのでド派手で迫力もあって何も考えずに見るには最高だった。丁度若い頃はパニック映画が流行っていた。「ポセイドンアドベンチャー」や「タワーリングインフェルノ」等、豪華キャストで人間模様もしっかり描かれている作品で文明の発達でそれにあぐらをかいた人々に想わぬ落とし穴が待っているというストーリーだ。現実にそれほどの災難はなかったとしても規模の差こそあれ似たような事故は起こっている。

また未来を示唆したSF映画も見逃せない。スターウォーズは今でもシリーズで続いているが、未知との遭遇やET等は実際にありそうな話だと思っている。UFOや宇宙人の話は現実にも目撃情報は後を絶たないが、近い将来テレビでUFO母船が世界のあちこちに出現している場面が報道され、宇宙人との接触が明るみになるのではないかと期待している自分がいる。またマトリックスのように実は今私たちが存在する世界は真の現実ではなく、別に荒廃した世界があってそれが本当の世界。我々は管理された幻の世界を生きているという設定だが、これも物事を客観的に捉えるとあながち嘘だとも否定できない気がする。最近では現実世界はパラレルワールドで量子力学からも複数存在するという説が普通に語られている。

「タイム」という映画をご存知だろうか。2011年の映画だがこれこそ未来を予言するような内容だ。人類は富裕層と貧困層に分けられている。人は遺伝子操作で25歳以上歳を取らないが、貧困層は常に労働を強要され、それがポイントになっていて生きれる時間であり稼げず0になると埋め込まれた生命維持装置が切れて死がやっている。一方、富裕層は生まれつき使いきれないポイントを与えられ半永遠に生きる。ストーリーはそんな社会に嫌気がさした富裕層の1人が貧困層に自分のポイント譲って自殺。思わぬポイントを得た主人公が富裕層社会に乗り込み混乱を招くというある意味お決まりのパターンではあるが正に今の世の中を風刺し、これから管理社会に向かおうとする流れの行きつく先だと思う。他にもAIの自我の目覚めという危険性を示唆した「エクス・マキナ」等は、当然そうなると考えた方が自然に思える。SFの世界は傲慢な富裕層が作ろうとする理想世界のアンチテーゼ。

世界の超富裕層数人の資産は、それ以外の人の財産を合わせた総額の何倍もの資産を保有しているらしい。そりゃ世界を好きなように動かせる訳だ。これから世界的には人口が爆発し、食糧難になる。環境破壊が進むとなると超富裕層は思い切って人口を減らしてしまえ、それは戦争でも自然災害でも何でも良い。一応大義名分さえ立てばと。既にあらゆる事象でその方向へ持っていこうとしているように思える。

これが単なる映画好きのSFによる空想であり夢物語であることを願っている。

世代交代

父親がお正月に亡くなった。97歳だったので誰もが大往生でしたねとお慰めを言ってくださる。ほぼ老衰であったのでおっしゃる通りなのだが、本人は辛かったと思う。ここ1年半程施設のお世話になったもののコロナ禍で外出禁止、面談はガラス越し、景色は窓越しでしか見られず本人は「格子なき牢獄」と言っていた。後3年で三桁であったのでもう少し頑張れればと家族は期待をしていたのだが…。

人生100年時代。それは幸せなのか。体が元気で家族が傍にいてある程度自分の事は自分でできて、死ぬ数日前まで元気でいられたら、これは幸せだろう。しかし、実際にはほとんどの老人が夫婦でどちらかが欠けると独居老人になり子供がいてもあまり寄り付かず、身体は衰え何をやるにも疲れてしまい、あまり動かずただ目的もなくわずかな年金で細々と生きる(いや生きれない)。これは幸せにはほど遠い。日本は北欧等と違い国が老後を守ってくれる福祉国家、社会主義国家ではない。その代わりに税金が他国より安いなどというが、それはお金持ちだけが得する構造でしかない。

一億総中流主義などとバブル時代は浮かれていたが、今や貧富の差は激しく世界の先進国の中でも恥ずべき程に貧困層が多い国民となってしまった。頑張って経済大国となっても海外から圧力をかけられ潰されて、特に欧米にものを言えない政治家とそれを選んできた国民の自業自得と言えばそれまでだが、ただこのままでは若い世代の夢や希望は奪われ、日本は海外の食い物にされてしまう。次の世代が日本に誇りを持てる国づくり、単に長寿国でなく健国として自立した国家を築くことが大切だ。

自分は何年生きられるのかわからないが、せめて若い世代がこの国に生まれて良かったと思える国であってほしい。そして国民の一部(富裕層や高齢者)を大事にするのでなく各層を大事にバランスの取れた社会が作れるように、若者が声を上げる(上げなくでも選挙でその考えを代弁してくれそうな政党や議員に投票する)事を期待したい。

人の有難み 一瞬の触れ合い

相変わらずコロナに翻弄される日々。本日の感染者は何千人。先週よりも何倍多いと報道されては3回目のワクチンを早く打たねばヤバいと考える人は多いのではないか。

ワクチンにも充分リスクがあると思う。ワクチンで健常人が亡くなり、副作用もでる。少ないかもしれないが日々着実に起こっている現実。しかし、一切それはマスメディアでは報道されず、厚労省のHPでひっそりとアップされ因果関係は不明と表記。一部の人がそれをネット上で伝えて注意を呼び掛けている。とにかく国はネガティブな事を権力で封じ込めている。そのくせ強制ではありません自己責任です。これは明らかにおかしいのでは。

さて、私はメンタルケアでよく公園に行く。神奈川県の西部にある七沢自然公園もその1つだ。ここは車でないと行き難いせいか比較的人が少なく、低山ではあるが森林が多くて芝生の広場も点在するので、自然の気の巡りや気分が良い。芝生では簡易テントを張って昼寝をしたり読書をしたり、思い思いにくつろいでいる。家族で自然に触れ合う姿を見ていると、こちらも心が和む。山をベースにした公園なので起伏が多く、尾根伝いに軽いトレッキングが楽しめる。途中やけに木の根がむき出しになった道がある。

少し前の事だがそれが気になってスマホで写真を撮っていたら声をかけられた。「何を写しているのですか。」見ると地元の消防員の方だった。「この根が張った風景がめずらしいかなと思って。」すると「この根は浅いけれど、もともと地中に埋まっていたのが風と施設管理上、山蛭の隠れ家にならないよう掃いているうち根が浮き出てきたんですよ。」というお話。どうも最近は低山でも山蛭が出るらしい。かつてこの付近の山歩きをしていて知らないうちに蛭に血を吸われていたことがあった。蛭は鹿につくと言われるがどうも鹿や猪がこんな低山にも下りてきているようだ。「まだこの公園内で見たという話はないもののすぐ近くの山では熊も出ますよ。」「猿もいるし。」と親切に教えてくれた。そして蛭除けのスプレーを私の靴にかけくれた。「それではお気を付けて。」「どうも有難うございました。」と言って別れた。ほんの数分の人との触れ合いであったが何とも心地の良い時間だった。

今はコロナ禍でマスク装着なので籠った声から必要以外の会話はできるだけしない。知らず知らずのうちにコミュニケーション不足というストレスが溜まっていたのだろう。だから知らない人から声をかけられ、公園や山のありさまを語ってくれたのが心に染みた。電車やお店や通気の悪い密集環境でのマスクは理解できる。しかし外を一人で歩いている時マスクをするのはどうなんだろう。

「おはようございます。こんにちは。こんばんは。」基本的な挨拶も減っているように思う。何気ない声の掛け合いや語らいが、孤独感を癒し、人の優しさ有難さを教えてくれる。

数か月ぶりの投稿

古いパソコンで投稿画面が真っ白になってうまく操作ができず暫く投稿ストップしていました。

これからまた復活し、コンテンツを増やそうと思います。

悪しからず。