ここのところ中々、ブログを書く気も起らず焦燥感にかられていた。それは世界のあちこちで争いが増え絶えないからで、自分を含めた人の愚かさと無知さに辟易している。
人は戦争なんて誰も望んでいないとつい思ってしまうが、まずそこから疑う必要がある。本当にそうなのか。戦争が起こると得する人がいる。兵器の企業がそうなる。兵器の技術を競い合う企業にとって敵よりも優れたものを開発することで抑止力にもなり防衛という大義名分が立つ。使用せずともどんどん新たな技術で開発したものなら切り替えて売れる。人殺しの兵器を開発し販売するそれを生業にしている人がいるのだ。良心の呵責はあるのか聞いてみたい。兵器を持つことで相手を威嚇して平和になるとでも言うのだろうか。
そして宗教絡みになると我が神が唯一神であり、他神は認めない。これがやっかいである。イスラエル、パレスチナ問題。特に戒律が厳しい宗教は「ねばならない」ので、選択の余地は無い。唯一神を守るためには、他神教徒を殺害しても構わないと思っていてそれは聖戦であり正しい行為なのだ。そして大事な自分を犠牲にしてでもそれを貫こうとする。神は本当にそんな事を望んでいるのだろうかいやそんなはずはない。どんな人間にも生きる権利や幸せになる権利があって、そしてその生き方を導いてくれるのが真の神だ。だから宗教戦争はもってのほかである。勝手に神が望んでいると自分よがりに解釈した神への冒涜だ。
そして何故か生まれつき戦いが好きで喧嘩や暴力を日常茶飯事にしてる人がいる。そんな人は戦争と聞くと血が騒ぐのか。兵士になれれば幸せなのだろうか。
政治家にも戦争を好むものがいる。一旦国家権力を持つと思い通りに人やものを動かせるので民を使って侵略や略奪をさせる。逆らうものは国家反逆罪で捕まえ隔離して牢屋に入れられる。政治家は権力とお金が身に付くので止められない。指示を出して高みの見物をしていれば良いので、やりたい放題だ。しかもそういう者ほど私腹を肥やし贅沢三昧の生活で自分の幸せしか考えられない、民の苦しい生活や気持ちなど屁とも思っていない。
これら戦争を望む人に足りないのは、相手の身になってものごとを考えられない、人の痛みが分からない事である。これは人間としての決定的な資質の欠落と言える。普通なら自分にやられたくない事は他人にしないとなるはずだが、それが子供の頃に身に付いていないと平気で人を傷つけ、痛みを与えてしまう。むしろそれを喜びとするサイコ、狂人、病人だ。
さて、人は所詮そんな生き物だと諦めるのか。それとも少しでもそんな人を増やさないように社会や教育を変えていこうとするのか、ここが正念場かもしれない。愚かにも核戦争で自ら滅びるのか、それとも地球という自然の力に淘汰されるのか。あるいはAIが人は危険と判断し攻撃を仕掛けてくるのか。
私たち一人ひとりの知性や努力そして祈りがやがて大きな力となる。追い詰められても起死回生で素晴らしい世の中に変えていけると信じたい。