ゴールデンウィークを過ごして

毎年この時期の気候は寒さから解放され、春のうららかさが充分感じられて行楽には持ってこいのタイミングと言える。今年は例年より少し気温が低く、前半は雨模様で後半は比較的天気に恵まれたように思う。つい自然が恋しくなって車で近くの山まで走りたくなる。

行ってみると新緑が眩しく実に気分が良い。木々が暖かくなるのを待ちわびていたかのように新たな葉が芽吹き、それは黄緑で太陽の日を浴びると輝いて、生きてるぞと訴えかけてくるように思える。また野には様々な花が色とりどりに咲いている。ここから生命の営みの凄さが感じられる。植物だけではない。よく見ると小さな虫がうごめいている。地球上には様々な生命が息づいている。クジラのような巨大生き物から指で軽くつまんでも潰れてしまいそうな小さな虫まで。それは大小に関わらず人間と同じ一つの生命体だ。年齢を重ねるとそんな命が愛おしい。必死に生きているのは皆同じなのだから。動物が話をしてそれが理解出来たらどんなだろう。きっと人間の傲慢さや自己中なところに文句を言ってくるだろう。地球はお前たちのものだけじゃない。もっと自然や他の生き物も大切にしろと。

さて今年のゴールデンウィークはコロナ前とは言わないまでも、それなりに人出は多かったようだ。それぞれがどこへ行って、何を観て何を感じたのだろう。理屈は抜きで今生きていることに幸せを感じられたら、それはとても良いゴールデンウィークだったに違いない。

争いという愚かさ

コロナ禍は相変わらずくすぶった状態が続いている。最近ではロシアのウクライナ侵攻の状況が毎日テレビでその詳細を伝えていてウクライナの国や人々の悲惨な光景が画面に流されている。確かにウクライナの民間人を爆撃で殺してしまうロシアのやり方は如何なる理由があろうとも許される事ではない。しかし、ロシア、プーチンが悪でウクライナ、ゼレンスキーは善という決めつけは如何なものか。強いもの(大国ロシア)が弱もの(小国ウクライナ)いじめをしているという構図は如何にも善悪がはっきりしているように思える。

しかし実は弱いものが先に強いものが嫌がる事を仕掛けたとすると話は変わってくる。   しかも弱いものを後で操り利用しようとしている影の強者がいたとしたらどうだろう。我々は国という単位で物事を考えるが、同じ利害を持った者同士、国とは関係なく結ばれたグループや層が行動を起こしていたとしたら。多分こういう話をするとありもしない陰謀論だと一笑されると思うが、実際に資本主義が原理の世界では民主主義等、所詮建前に過ぎずお金のためなら何でもござれが実態ではないか。残念ながら戦争産業が儲かるのは誰もが認める事だろう。軍事産業は既に相当儲けているという報道もある。実際のところは中々わからない。

まず私たちはマスメディアの伝える事をそのまま鵜呑みにせず、立場や異なる視点での情報を集めて冷静に判断する必要がある。立場によって善悪は逆転するし、あらゆる事象を冷静に判断しないと見間違えてしまう。そして大事なのは善悪の判断以上にまず争いを終わらせるための双方の妥協点を探り、周りがそこへ導くことが大事だと思う。むしろ今は逆で、マスメディアはあいつが悪いから徹底的に争って潰せと煽り、当事者をたきつけているように思える。 どちらも追い詰め過ぎると逆上して、とんでもない結果を招きかねない。今や戦争は直接人を殺す武器だけでなく、経済やサイバーやメディアを介した情報等による攪乱も用いられる。

人の行き来やインターネット情報であらゆる国や人の情報が入り、お互いの理解もしやすくなった。そろそろ人類は資本(拝金)主義というヒエラルギーから脱却し、争いという愚かな行為を止めて地球単位の共存共栄という新たな構図を確立したいものだ。

メタバースの世界

人類はいずれ肉体を捨て精神世界で生きる。一昔前こんな事を言おうものなら頭がおかしくなったと思われただろう。しかし、今はありえるかもに変わってきた。

仮想空間は技術の発達によりリアルに近づきつつある。VRは360度どころか装着した状態でどこを見まわしても必ず景色が広がっている。まさに仮想現実を体験できるのだ。ここに接触感覚が加わればもう超現実と言えるようになる。実際にそこにも着手され特殊なスーツや特殊な環境を生み出す部屋も開発されつつあるようだ。コロナで海外旅行に行きたくても行けない人にとってはきっと素晴らしいグッズになると思われる。もちろん、現実とは違い実際に行って良いも悪いも経験できる事は違うだろうが、例えばその場所のベストな状態を再現してくれるなら天候に左右されやすい景色、例えば気まぐれなオーロラがいつでも見れるとか雨や雪で寒い思い、灼熱の太陽を浴びて日焼けを気にすることもなく真っ白な砂浜にどこまでも続く天国のようなビーチの景色を眺めていられる歩ける等メリットは大きい。何よりも時間もお金もそんなにかからないはずだ。もちろん宇宙や別の星にも行ける。あるいは理想的な創造の未来世界や想像上の天国にも行ける。男にとってハーレムのような美女だらけの世界、その逆で女性にとっていけ面だらけの世界もありだろう。これらは娯楽の世界で現実がすさんでいると、この世界にのめりこむ人もたくさんでてくると思われる。              既にVRのゲームではそこにはまって疑似体験で様々なサバイバルやアドベンチャーが展開されている。

ビジネスの世界では、そこまでリアルでなくとも2次元的な空間で必要最低限のファイルやシステムで処理すべき事象を遠隔で行う。自分の代わりのアバターが名刺代わりになって仕事を行うようになるらしい。既にバーチャル世界では仮想通貨であらゆる商品売買が行われているらしい。そこにAIが入ってくれば放っておいても自分の代わりに間違いなく何でもこなしてくれる。AIアバターが自分の代わりに通貨を稼いでくれる。

考えてみればコロナ禍で自宅のPCや携帯と会社のPCあるいはクラウドにつなぐ事で既にメールやチァット、ズーム等のシステムで仕事をしている訳で、意識せずともネットという仮想空間、一種のメタバースを経験しているといえる。

さて、心配になるのはそんな夢の世界と現実のギャップに人は冷静さを保ちバーチャルとリアルのバランスがとれるのかという事。例えばバーチャルの世界で戦争や争いで人を傷つけたり殺害する等好き放題しているとそれがリアルでもエスカレートして犯罪が増えるとか。バーチャルでは理想の異性に会い何でもいう事をきいてくれるのにリアルでは否定や拒否をくらうと許せなくなる等。これはリアルの世界にアンドロイドという理想の異性ができるとリアルな人との恋愛がうっとうしくなり、最後は理性を失ったり悲劇を招くといったストーリーになりそうだ。自分は大丈夫と鷹をくくってはいられない。バーチャルとリアルの区別がつかなくなる、そんな世界が間近に迫っている。

メタバースが良くなればなるほど人はバランスを取るためによりシビアなリアルで生きねばならなくなる。何故なら自然や生身の人間と触れ合ってはじめて人は他者や生きる意味を理解できるからだ。

アメリカ映画に見る未来の暗示

私は学生の時代から映画が好きで、時間を見つけては映画館に足を運んでいた。学生の時は お金がないので3本建てで1,000円を切るような場末の映画館通いだった。映画はジャンルを問わず何でも見た。あえて言うならオカルト映画はできるだけ避けたが。

ハリウッド映画はお金がかかっているのでド派手で迫力もあって何も考えずに見るには最高だった。丁度若い頃はパニック映画が流行っていた。「ポセイドンアドベンチャー」や「タワーリングインフェルノ」等、豪華キャストで人間模様もしっかり描かれている作品で文明の発達でそれにあぐらをかいた人々に想わぬ落とし穴が待っているというストーリーだ。現実にそれほどの災難はなかったとしても規模の差こそあれ似たような事故は起こっている。

また未来を示唆したSF映画も見逃せない。スターウォーズは今でもシリーズで続いているが、未知との遭遇やET等は実際にありそうな話だと思っている。UFOや宇宙人の話は現実にも目撃情報は後を絶たないが、近い将来テレビでUFO母船が世界のあちこちに出現している場面が報道され、宇宙人との接触が明るみになるのではないかと期待している自分がいる。またマトリックスのように実は今私たちが存在する世界は真の現実ではなく、別に荒廃した世界があってそれが本当の世界。我々は管理された幻の世界を生きているという設定だが、これも物事を客観的に捉えるとあながち嘘だとも否定できない気がする。最近では現実世界はパラレルワールドで量子力学からも複数存在するという説が普通に語られている。

「タイム」という映画をご存知だろうか。2011年の映画だがこれこそ未来を予言するような内容だ。人類は富裕層と貧困層に分けられている。人は遺伝子操作で25歳以上歳を取らないが、貧困層は常に労働を強要され、それがポイントになっていて生きれる時間であり稼げず0になると埋め込まれた生命維持装置が切れて死がやっている。一方、富裕層は生まれつき使いきれないポイントを与えられ半永遠に生きる。ストーリーはそんな社会に嫌気がさした富裕層の1人が貧困層に自分のポイント譲って自殺。思わぬポイントを得た主人公が富裕層社会に乗り込み混乱を招くというある意味お決まりのパターンではあるが正に今の世の中を風刺し、これから管理社会に向かおうとする流れの行きつく先だと思う。他にもAIの自我の目覚めという危険性を示唆した「エクス・マキナ」等は、当然そうなると考えた方が自然に思える。SFの世界は傲慢な富裕層が作ろうとする理想世界のアンチテーゼ。

世界の超富裕層数人の資産は、それ以外の人の財産を合わせた総額の何倍もの資産を保有しているらしい。そりゃ世界を好きなように動かせる訳だ。これから世界的には人口が爆発し、食糧難になる。環境破壊が進むとなると超富裕層は思い切って人口を減らしてしまえ、それは戦争でも自然災害でも何でも良い。一応大義名分さえ立てばと。既にあらゆる事象でその方向へ持っていこうとしているように思える。

これが単なる映画好きのSFによる空想であり夢物語であることを願っている。

世代交代

父親がお正月に亡くなった。97歳だったので誰もが大往生でしたねとお慰めを言ってくださる。ほぼ老衰であったのでおっしゃる通りなのだが、本人は辛かったと思う。ここ1年半程施設のお世話になったもののコロナ禍で外出禁止、面談はガラス越し、景色は窓越しでしか見られず本人は「格子なき牢獄」と言っていた。後3年で三桁であったのでもう少し頑張れればと家族は期待をしていたのだが…。

人生100年時代。それは幸せなのか。体が元気で家族が傍にいてある程度自分の事は自分でできて、死ぬ数日前まで元気でいられたら、これは幸せだろう。しかし、実際にはほとんどの老人が夫婦でどちらかが欠けると独居老人になり子供がいてもあまり寄り付かず、身体は衰え何をやるにも疲れてしまい、あまり動かずただ目的もなくわずかな年金で細々と生きる(いや生きれない)。これは幸せにはほど遠い。日本は北欧等と違い国が老後を守ってくれる福祉国家、社会主義国家ではない。その代わりに税金が他国より安いなどというが、それはお金持ちだけが得する構造でしかない。

一億総中流主義などとバブル時代は浮かれていたが、今や貧富の差は激しく世界の先進国の中でも恥ずべき程に貧困層が多い国民となってしまった。頑張って経済大国となっても海外から圧力をかけられ潰されて、特に欧米にものを言えない政治家とそれを選んできた国民の自業自得と言えばそれまでだが、ただこのままでは若い世代の夢や希望は奪われ、日本は海外の食い物にされてしまう。次の世代が日本に誇りを持てる国づくり、単に長寿国でなく健国として自立した国家を築くことが大切だ。

自分は何年生きられるのかわからないが、せめて若い世代がこの国に生まれて良かったと思える国であってほしい。そして国民の一部(富裕層や高齢者)を大事にするのでなく各層を大事にバランスの取れた社会が作れるように、若者が声を上げる(上げなくでも選挙でその考えを代弁してくれそうな政党や議員に投票する)事を期待したい。

人の有難み 一瞬の触れ合い

相変わらずコロナに翻弄される日々。本日の感染者は何千人。先週よりも何倍多いと報道されては3回目のワクチンを早く打たねばヤバいと考える人は多いのではないか。

ワクチンにも充分リスクがあると思う。ワクチンで健常人が亡くなり、副作用もでる。少ないかもしれないが日々着実に起こっている現実。しかし、一切それはマスメディアでは報道されず、厚労省のHPでひっそりとアップされ因果関係は不明と表記。一部の人がそれをネット上で伝えて注意を呼び掛けている。とにかく国はネガティブな事を権力で封じ込めている。そのくせ強制ではありません自己責任です。これは明らかにおかしいのでは。

さて、私はメンタルケアでよく公園に行く。神奈川県の西部にある七沢自然公園もその1つだ。ここは車でないと行き難いせいか比較的人が少なく、低山ではあるが森林が多くて芝生の広場も点在するので、自然の気の巡りや気分が良い。芝生では簡易テントを張って昼寝をしたり読書をしたり、思い思いにくつろいでいる。家族で自然に触れ合う姿を見ていると、こちらも心が和む。山をベースにした公園なので起伏が多く、尾根伝いに軽いトレッキングが楽しめる。途中やけに木の根がむき出しになった道がある。

少し前の事だがそれが気になってスマホで写真を撮っていたら声をかけられた。「何を写しているのですか。」見ると地元の消防員の方だった。「この根が張った風景がめずらしいかなと思って。」すると「この根は浅いけれど、もともと地中に埋まっていたのが風と施設管理上、山蛭の隠れ家にならないよう掃いているうち根が浮き出てきたんですよ。」というお話。どうも最近は低山でも山蛭が出るらしい。かつてこの付近の山歩きをしていて知らないうちに蛭に血を吸われていたことがあった。蛭は鹿につくと言われるがどうも鹿や猪がこんな低山にも下りてきているようだ。「まだこの公園内で見たという話はないもののすぐ近くの山では熊も出ますよ。」「猿もいるし。」と親切に教えてくれた。そして蛭除けのスプレーを私の靴にかけくれた。「それではお気を付けて。」「どうも有難うございました。」と言って別れた。ほんの数分の人との触れ合いであったが何とも心地の良い時間だった。

今はコロナ禍でマスク装着なので籠った声から必要以外の会話はできるだけしない。知らず知らずのうちにコミュニケーション不足というストレスが溜まっていたのだろう。だから知らない人から声をかけられ、公園や山のありさまを語ってくれたのが心に染みた。電車やお店や通気の悪い密集環境でのマスクは理解できる。しかし外を一人で歩いている時マスクをするのはどうなんだろう。

「おはようございます。こんにちは。こんばんは。」基本的な挨拶も減っているように思う。何気ない声の掛け合いや語らいが、孤独感を癒し、人の優しさ有難さを教えてくれる。

数か月ぶりの投稿

古いパソコンで投稿画面が真っ白になってうまく操作ができず暫く投稿ストップしていました。

これからまた復活し、コンテンツを増やそうと思います。

悪しからず。

幸せって何だっけ。

幸せは感情が心地よくなる事だよね。じゃあ、どんな時にそう感じたり思ったりするのか。 お金を沢山稼いで広くて豪華な家に住み、高級外車に乗って、好きな時に海外旅行に行って、美味しものを食べられて優雅に暮らす。これは確かに幸せといえるだろう。しかし、これが独りであったらどうだろうか。もちろん人付き合いが煩わしいから独りが一番という人はいる。しかし多くの人は恐らく楽しくても独りでは何か空虚ではないだろうか。少なくとも完璧な幸せとはいえないのではないか。幸せを感じられるのは、大抵は他者が絡むのではないだろうか。

贅沢をする事が出来なくても日々忙しくても、家族が健康でお互いを慈しみ、気にしあっている方が幸せを感じるのではないだろうか。それは家族でなくても友人でも良い。何か自分が努力して得られた結果であっても、必ずそこには他者の力が働いているし、支えがあっての事。仮に全て自分でやって成功しても他者の祝福や一緒に喜ぶ者がいた方がより幸せなはずだ。これは共感や同時体験というある種の親和性が充足を生むからだと思う。誰かが幸せそうな姿を見て祝福するのも幸せだろう。だから結婚式が成立してように思う。ただ表面上はそう見えてもひがみ根性が強ければ心の中で門出に不幸を願う不届き者もいるかもしれないが(笑)。

またもっと根本的な事をいうとお金がなくても衣食住が足りていたら、恐らく多くの人は幸せを見つける事ができると思う。それは生きる上での基盤であって食べられなくなる、住む家が無くなる、そういう不安がなければ恐らく自分の好きな事に注力し、自然環境と触れ合って生きていける。恐らく毎日に変化があって飽きることが無いだろう。農業などは正に自然が相手で気候次第で豊作もあれば、全くの不作もある。しかし最悪自分や家族の食べる分さえ確保できれば何とかなる。というか本来生きるとは自分や家族のため食べ物を調達するのに日々の大半の時間を費やすのが真の姿だ。これが文明や科学の発達で分業化され専門家されて、それ以外の仕事をするようになった。そしてそれらの多くは必需品どころか不要なものかもしれない。

さて、今新型コロナが世界を変え、社会を変え、価値観を変え、生活を変えようとしている。しかも幸せの大事なファクターである人との繋がりを遮断し、お金が回らなくなって多くの人の生活基盤は失われつつある。それでも生きるという原点に戻って考えてみると、自ずとやれねばならない事の優先順位は定まってくる。これからはAIやロボットが人の多くの仕事をやってくれようになる。人の仕事を奪われると考えるより、根本的なやるべき事に集中できるようになり、それは意外と幸福感を充足させるものになるかもしれない。コロナというピンチを人生を変えるチャンスと捉えて生きていこう。

きっと真の幸せがみつかるはずだ。

諸行無常

昨年来、新型コロナ禍のパンデミックで世の中は翻弄され続けている。テレワークが進み多くの人は家で過ごす時間が増えて生活が一変した。もちろん企業や業種によって特需で巣籠りどころか休む間はない所もある。人々は当たり前のようにマスクをして外を歩いている。そしてできるだけ近づかないよう距離をとるソーシャルディスタンスだ。間もなくワクチン接種が叶いそうだが元の生活に戻れるのか。恐らくそうはいかないだろう。政府もこれを機に週休3日や就業の仕方を変える働き方改革を一気に進める意向のようだ。人生100年時代。これは老後をゆっくり過ごして長寿を楽しもうというのではなく、できるだけ長く死ぬまで働いてもらおうという事らしい。確かに人口の年代別の分布図から見ても高齢者が多く頭でっかちな形で不安定。構造上高齢者を支えるはずであった中若年層が少ないから経済的に自分で自分を支えなければならない。

日本はかつて外国が羨む理想の社会(社会主義的資本主義、護送船団社会)であった。そして幸福の意識度が高い北欧社会のように税金は高くとも国民のため教育費は無料、老後はお金の心配無く安心して暮らせる福祉社会も実現できた。しかし、そこに舵を切らなかった。結果一億総中流どころか貧困になってしまった。もちろん一部は貧困層の生き血を吸って潤っている者もいる。お金がお金を生みお金がなければずっと貧しく貧富の差は広がる一方だ。恐らく日本人は政治に何も求めていないのではないか。多くの国民は会社員で税金をしっかり払っているのにその意識が無い。自分で税務署に払いに行けばもっと政治に関心が向くと思う。こんなに払っていて一体何をしてくれるのか。直接自分に返ってこなくとも弱者を救えているのか、公共事業が真に役立って社会や文明の発展に貢献できているのか等少しは考えるのではないだろうか。本来マスメディアがそこを監視し指摘して、国民に情報開示をすべきところを政府に脅され骨抜きにされている。その政府はというと外圧で首根っこをつかまれ外国の言いなりになっている。何も外国と喧嘩しろとは言わないがせめて舐められないように主張すべきはして矜持を持って外交をしてもらいたい。といっても政治家や政党を選んできたのは私たち国民なので、政治は民力の現れなのかもしれない。日本人は謙虚になりすぎて自信を失っているのだと思う。

どんなに世の中がおかしくなろうとも春になればまた桜が咲いて風が吹けば花は散る。こんな危うい世の中に生まれてくる命もあれば去り行く命がある。常に世の中は移り変わり、一時として止まることはない。諸行無常だ。大きな変化と小さな変化が繰り返されてきた。 しかし、それはけっして空しいものではなく、より幸せになるための真理に近づくための道であって歩み続けるしかない。人が世の中をおかしくしても、人と繋がりがあるから救いとなって歩んでいける。日々反省でも、0.1mmでも良いから前を向いて歩こう。きっと素晴らしい世界が待っている。

巣立ちの時

動物はその時期が来ると必ず親から離れて独りで生きていく。それまでは親兄弟と暮らして親の狩りの様子や外敵から狙われても保護下にあるので何とか守ってもらえる。人も本来動物と同じはずだが、必ずしも親元を離れなくとも実家で独身を貫く人もいる。しかし親は心配になる。親はいつまでも子供の面倒を見ることはできないからだ。だからよく聞くのが身体に障害がある子を持つ親は自分の目が黒い内に一人でも生きていけるようにわざと厳しくするという。 私はどちらかというと親離れ、子離れにも時間のかかる方だと思う。

子供は二人いて男兄弟。昨年まで下のが家を離れ名古屋で勤務し帰ってきたと思ったら、今度は長男が大阪勤務となる。どちらも離れる時はやはり寂しいものである。特に男同士お互い普段から多くを語ることはないが、そこは親だからどこかで様子を気にしている。独りで大丈夫か。社会に順応するだろうか。無茶をしていないかといらぬ心配をする。親になって初めてその気持ちがわかる。自分も両親にそんな心配をかけてきたのだろう。

さて子供を心配するよりいよいよ自分の今後の生き方を考えねばならない。私は会社から巣立ちをしなければならない。間もなく定年なのだ。その後の雇用もこういうご時世なのでどうなるかわからない。人生第2幕の始まりだ。自分のやりたい事をして生きるあるいはより社会に役立つボランティア的な考えも湧いてくる。年金はあてにならないので自力で稼ぐ必要がある。サラリーマンは給料日になると自動で定額のお金が銀行に振り込まれる。それによって毎月の住宅ローン、水道光熱費が払える。食費も確保できる。多少のこずかい遊興費もある。ところが辞めた途端、それがいきなり0になる。つまり生活基盤が無くなるのである。自分で現在の給与分を稼ぐのは容易い事ではない。それでも生きていかねばならない以上何かしらお金を稼ぐ方法を見つけねばならない。

コロナ禍で今後のビジネスは今までと変わる。このブログではないがコミュニケーションツールはネット依存型となり、バーチャル社会で多くの事が済むようになる。私はそれを良しとしないがこの流れは止められない。但し、そのことによって逆にリアルの重要性が高まると思われる。いずれにしても物事はどちらか一方に偏るとバランスが崩れるのでバーチャル同様、如何にリアルを進化させるかにかかっている。そこにビジネスのヒントがあると確信しつつ、自分ができる事でそれが何かの確信がまだ持てずにいる。今、確信を見つけようと努力している。しかし時間的なリミットがある。もし時間内にそれができなくても巣立ちせねばならない。もしかすると確信などただの幻想かもしれない。

恐れるものは何もない。後は勇気と希望を持って、明るい未来に向けて羽ばたくだけなのだ。