コックピット

ペットを飼っていると気づくと思うが、必ずいつも収まる場所がある。部屋の隅なのか猫なら箪笥の上なのか、その場所は恐らくどこよりも心安らぎ落ち着く聖地なのかもしれない。人にもそれぞれにそういう場所があると思う。それは必ずしもMY HOMEの中とは限らない。

私の場合はMY CARのコックピット、運転席である。何故コックピットと表現するかというと運転席では単に車を操作するだけの無機質なスペースに聞こえるからで、コックピットといった方が包まれ感があってより自分と一体化した空間に思える。以前に乗っていた車は妻が子供を送る、両親や家族を乗せて旅行に行く、多くの荷物を積んで子供をキャンプに連れていく等、とにかく使い勝手の良い車という事でミニバンだった。非常によくできた車でほぼ10年、10万キロ以上乗っていてもほとんど故障することなくきびきびと小気味よく走ってくれた。そして子供も社会人になり、妻も子育てから解放され車を運転する事もなくなって、次の車の買い替えを考えた。若くて独身の時はお金はなかったが、マニュアル車で中古でも馬力があってエンジンサウンドの良い速い車に乗っていた。とにかく車の運転が好きで全国の知らない土地や道を走るのが好きだった。またデートやゴルフをするにも車は必需品だった。全国を津々浦々を回った訳ではないが結構あちこちへ行った。

今、再び自分のためだけに車を買う。世はSUVが全盛だが結局スポーツセダンを選んだ。よりスポーティな2人乗りのクーペも考えたが、やはりゴルフや仲間と出かけるには5人乗りが良い。爪に火を灯すようにわずかな自分の小遣いをせっせと貯めてやっと買った中古車。それでも私にとっては大切な宝ものである。洗車もまめにして自分でコーティングし車中もできるだけきれいにして乗っている。自分のオリジナリティを出すのに目立たない程度に内外装に手を加えている。そして自己満足しながらドライビングを楽しんでいる。 

土日時間があればお気に入りの曲をiPhoneに入れ、それを接続して聞きながら湘南や伊豆、千葉、奥多摩等を転がしている。何と贅沢な時間だろう。ただ、時より地球環境を考えると排気ガスを出して走ることに後ろめたさを感じる事もある。地球環境よ皆様許してたもれ。   実は我家にいても落ち着かないので、例え車を走らせなくともコックピットに座るだけで心が安らぐ。白いシートに包まれ黒レザーのハンドルを握ると何とも気分が良い。ここが私の聖地なのだ。プッシュボタンでエンジンスタート。調子も良い。心の向くまま気の向くまま、さぁ、今日はどこまで駆け抜けようか。

台所

私は昭和生まれ。自分の両親は典型的な昔の日本社会の縮図のような関係で、父親は男だから外で稼いで家に帰れば「飯、風呂、お茶」といった感じ、母親は専業主婦で家を守り子供を育てるのが役割だった。だからと言って何でも父親の言いなりに従うようなしおらしい母ではなかったので、お互い引かずの夫婦喧嘩が多々あったのを覚えている。料理はというとたまに休日父親が焼うどんや炒め物、好き焼、鍋奉行はやっていたが、ほとんど台所に入ることはなかった。男子厨房に入るべからず、母親も家庭の料理は女の仕事と思い込んでいたように思う。そんな訳で私は結婚するまでほとんど料理をしたことがなかった。興味もなかった。しかし、今の時代そんなことを言っているようでは結婚生活等できようはずもない。よほどお金持ちで余裕があって、しかも女性が家庭に収まることを希望しなければ共働きは普通。夫婦ダブルインカムでやっと生活が成り立つといった家庭も多いと思う。当然男(旦那)は家事をしません、料理はできませんなどと言っていられない。今の若い男性は育メンとか主夫をも厭わないようだ。しかし今だからこそ言える。それは正しい在り方だと。

ところで私が料理をするようになったのは結婚をして20年程たってからか。それも妻が大病を患い入院して、その間子供たちの面倒をみる上で必要だったからだ。恐らく最初の内は食べられればOK程度で子供たちも我慢していたようだ。それは後々にわかるのだが。何しろあまり作った事がなかったので仕方がない。それでもやっているうちに慣れて、妻が退院して主婦に復帰してからも週末の1日は必ず夕飯を作るようになった。そして毎日料理を作るのは大変なのが良くわかった。献立を考えるだけでも面倒だ。同じものも飽きるし、かといって料理好きでもないので、つい一般的なもの自分が食べたいものになってしまう。歳をとると肉より魚、野菜が食べたくなる。あるいは油を使う焼き物より煮物とか。まさに母親の作る典型的な家庭料理で出汁のきいたあっさりしたものが食べたくなる。残念ながら何年も前に母は亡くなり、その味付けの秘訣は分からず終いだが、今でも再現できないものかと思う事がある。料理も慣れてくるとレシピ等見なくともあれとあれを混ぜればきっと合う、ああすれば美味しくなると頭の中で計算ができるという。まだそのレベルには程遠いが。今は夫婦揃っていても、いずれはどちらかが先に逝く。おかげさまで、もし妻に先立たれたとしても自分で料理が作れるので何とかなりそうだ。掃除洗濯も問題はない。「女やもめに花が咲き男やもめに蛆がわく」と言われないようこれからは男も厨房に入り浸って妻を唸らせるような名シェフになるなんて想像する。それもまた楽しからずや。

日本人という不思議

「クールジャポン」なんて、さも日本は世界から見たら特別の国でカッコイイとか、ありえないくらい親切な国民とかそんなテレビ番組やYoutubeが見られる。それってどうなんだろう。おそらく各国それぞれに歴史や文化や国民性があって、それぞれに良し悪しはある。

他国との比較ではなくて日本という国をもっと良く知ることが大事なのだと思う。その上で日本人の気質を考えてみると客観的な理解ができると思う。日本はよく極東と言われれる。何故か。海外で使用されるスタンダード地図を見れば日本は最も右側の国つまり極東。中心はというとアフリカ、ヨーロッパ。西は大西洋を挟んでアメリカ大陸が位置し、日本より東は太平洋の海でそれは分断されハワイなどは省略されている地図もある。最も経度的にはロシヤの東側やニュージーランド等はより東に位置している。私は最果てに近づけば近づくほど人は混血が増えていくと考える。それはもしかすると中央(中心)とされる地で争いがあって勝者はその地に留まり支配をして、敗者は追放されるか様々な地へ逃れていく。あるいはそんな争いに嫌気がさして新たな開拓地へ希望をいだいて移動する。西は大西洋を船で渡り、アメリカ大陸へ。東はユーラシア大陸を伝って最終的に極東の地日本へ。実際にDNA鑑定で日本人は土着縄文人と渡来弥生人が混合し、特に弥生人は大陸の様々な血が混合していたようだ。よく大昔のユダヤ10部族のいくつかが日本までたどり着き、仏教伝来前の宗教としてユダヤ教が日本古来の神道になったのだと聞く。実際に神の祀り方や日本語の発音には共通するものがあるらしい。そう言われると日本人の顔もモンゴル、中国、韓国から中東系の顔まで様々あるように見える。また八百万の神という考え方は日本人ならではないか。外から入ってきた宗教や神様その場にある自然に宿る神まで存在している。人々が争いを避けるため、お互いに信じるものを尊重しあう「和の精神」にいたったのかもしれない。海外では別の神の共存などありえないようだ。日本人の本質としてあらゆるものを受け入れて融合させていくDNAが備わっているのではないだろうか。

しかし、それも今や外国からの圧力やグローバル化、ボーダレス化で融合ではなく画一的な価値観の押し付けや培った文化を無視した全くの塗り替えを迫られているように思う。残念ながら、その事に気づいていないのもまた私も含めた日本人の愚かさであり人の良さといえる。日本人は島国根性とか井の中の蛙とか、確かに世界的に見ると稀有な存在の反面、それはクールジャパンであり他の国では成り立たない、あるいは大陸では生きていけない気質なのかもしれない。であればこそ守るべきは守り、受け入れるものは受け入れて上手く融合するのが日本人の真骨頂のはずだ。そのバランス感覚まで失ってはならないと思う。

日本人よ、比較や争いをしないため敢えて愚かに見せるのは良けれど、愚かになってはいけない、賢くふるまって真の意味で外国人が羨む国であり、その民でありたい。

富士山

ご存知日本の象徴であり、日本一高い山。富士山が見える家はそれだけで家相が良いなんて聞いたこともある。天気が良ければ北は福島から西は和歌山まで見えるらしい。関西の人が新幹線で東京に来るときに車窓から富士山が見えるととても幸せで嬉しいという話を聞く。そう富士山は昔から日本人に大事にされ愛されてきた山であり、今後も人が壊さない限りそれは変わらないと思う。日本は狭い土地に多くの山、山脈があってそれは神格化されてきた。修験者(山伏)は十字を切って(結界を張って)山に入り修業を積む。仏教の千日回峰行もひたすら山を歩き続ける。山には本来人が持っている霊性を高める何かがある。何年か前に長野と岐阜の境にある御岳山が爆発した。この山は昔から信仰の山で修業を積んだ聖者や修験者でなければ登ってはいけない山だった。今は木曽路もトンネルや舗装道路が増え車であれば時間もかからず快適に御岳山の中腹までは行ける。私も父を連れてそこまでマイカーで上がったことがある。霊山と聞いていたので、正直その観光地化したギャップに驚いた。何とスキー場があってリフトで中腹まで登れる。しかし、今でもその時の感覚を覚えているが、ここから先、上へは安易に行かせない寄り付かせないという威圧感と恐怖を感じた。ガスっていたのもあったと思うが頂上付近は雲が立ち込め、ときおり見える厳しい外形から地獄の一部を見せられたようなそんな空気が立ち込めていた。その時父は何故かいつか自分が亡くなったら、その遺影を持ってこの山に登ってほしいと言った。それから2年後に噴火があって登山者に犠牲が出た。幸い父は今90半ばを超えても元気でいてくれるのでその約束を果たさずに済んでいる。さて日本は神の宿る国といわれる。山は深い森を創り多くの植物と動物を育む。そして水を溜め川が流れて海に至る途中の多くの土地を潤してくれる。それは正に循環という自然の恵みであり、そんな山には神が宿っているのだ。日本の山の王者である富士山その裾野は樹海が茂り湖も多く広大無辺。実は富士山も霊山で安易に登る山でなく下からあるいは遠くから神々しく眺める崇める山だと思う。最近世界遺産になってから登山者が増えごみが増え荒れていると聞く。流石に行楽シーズン5合目までのマイカー乗り入れが一部出来なくなっている。それでも登山するのであれば富士山に敬意を払い「六根清浄」の意味を心に刻んで感謝の気持ちで登ってほしい。私は中々富士山に登る気になれないのだがいつか登ろうと決めた時はそうして登ろうと思う。富士山は観光で何度も登る山でなく一生に一度登る山、あるいは眺めた時に心の中で手を合わせる宝来山なのだから。

公園にある幸せ

コロナで不要不急の外出禁止。今ではどこまでこの言葉に意味があるのかよくわからない。 油断ではないにしろむしろ今の人出はある意味冷静さを保っているのではないだろうか。  休日の公園に行ってみるとその人出に安心する。若い人は都心へ出ようとするが子供を持つ家族や高齢の夫婦は近くの大きめの公園で楽しんでいる。そして、そこには家族の数だけ幸せをかいま見る事ができる。大声を出して芝生を走り回る子供。一緒になって子供のように走る父親。それを見てほほ笑む母親。絵に書いた家族。でもそこには何の装飾もなく今を楽しむ本当の幸せがある。ベンチに座ってまっすぐ前を向いて語らう老夫婦。多くを語らずとも気持ちが伝わっているのだろう。そこには飾った言葉もないが一言一言にきっと愛情がこもっているのだと思う。きっとそんな夫婦の関係になるまで多くの苦悩があっただろうと思う。私は妻とそんな夫婦になれるのだろうか。疑いや迷いからは何も生まれない。お互いを信じるしかないのだから。休日ながら先生と生徒の姿があった。公園で生徒が何かを調べているようだった。休日でも生徒に寄り添う先生だから志を持った教師に違いない。年配の女性グループで楽しそうにしゃべりながら散策する光景も見られた。年齢を重ねて社交的に活動して元気になるのは男性より女性の方が優れているようだ。公園にはこんな人の営みを自然に見せる魅力がある。季節の草花が彩りよく絵画のように植えられている。雑草を抜き枯葉やごみはまめに掃除され、剪定を行い整然と並ぶ木々たち。噴水やせせらぎ。決して自然のままの姿ではないけれど、そこには公園管理の人が一生懸命整備した心が現れている。きっと人々が公園で楽しむ光景を遠目に見て幸せを感じていることだろう。ひっそりとおかれたモニュメント。絶妙に配置された木のベンチ。そんな心配りに心安らぐ。

独りでもいい公園に行こう。たくさんの幸せがきっと私を幸せにしてくれるから。

テレワーク

昨年春から今に至るまでコロナ禍で出社もままならないという状況。一時緩んだ時期もあったが感染者の増加でまた非常事態宣言とは。医療現場の崩壊、現場の医療従事者は実際に大変な状況だと思う。関われる医療者が限られていて入院ベット数も決して多くはない。指定感染症2類が問題で一般の医療では対応できないのだから5類に下げろとか。国も政策が中途半端で全く逆のGotoキャンペーンから飲食店規模に関わらず一律の補助金支給等。かなり矛盾してつけ焼きは否めない。誰もが思う全国的にロックダウンして3週間で何とか国内コロナ撲滅を。これもその間の国民全員の保証と海外からの入国制限鎖国が条件になる。どれもそれぞれの立場で考えれば間違いではなく、あっちを立てればこっちが立たずのカオス状態だ。思うにこれは集団免疫ができなければ収束は難しいのかもしれない。毎日せっせと手洗いやアルコール消毒、うがい、閉鎖空間ではマスク着用しできるだけテレワークで自宅勤務と国民の多くは粛々と従っている。テレワークもある意味罪なもので、本音をいうと自宅では会社のように長時間の集中は継続しないし、意識も薄れる。よって効率も低下する。ところが日本人はよく飼いなされており、本来リラックス空間である自宅でPCに向かい就業時間は無理やりでも仕事をしようとする。何故なら会社から給与をもらっているし、そうしなければ給与泥棒の怠け者で罪人とさえ思ってしまう。はい、わかります。私もそうだからです。

さて父親というの立場はどうもいけない。最近の家庭では分が悪く、一人のけ者扱いされがちに。母親は子供と日々べったりなので喧嘩はしてもいざとなると結束する。今までは会社帰りに飲んで一日のうさを晴らして気分良く眠りに帰った家が、いきなり一日中家で仕事かつ朝から晩まで出ないとなると妻にとっては正直邪魔以外にない。口に出さずともそれは分かる。テレワークで家族バランスや夫婦関係がおかしくなる家も多いだろう。私はテレワークの時は必ず散歩をしている。時には車で多少離れた場所に行き気分転換もする。その時は怠け者、罪人という後ろめたさを拭い去りバカボンのように心で叫ぶ。これでいいのだー!

そろそろ次のレベルヘ!

最近はテレビもすっかり見なくなった。Youtubeの方がはるかに面白いし、自分の好きな気になるジャンルの情報を集約できるので便利だ。もちろん時事問題はある程度把握する意味で少しニュースを見ることはあるが、今はほとんどコロナの話ばかりで詳細を見る気がしない。結局、自分で注意できる事を真面目にやって後は運を天に任せるしかない。また政治は腐敗し誰がどう見ても自分たちの保身や職権乱用で個人の権力やお金儲のため茶番を繰り広げ、今や犯罪だろと思える事や嘘も平気でついて開き直れる国会劇場は異常としか思えない。国民はどうせどの政党が与党になっても誰が総理になっても自分の生活には関係ないから、選挙もいいやという状態。これでは社会は益々政治家のやりたい放題で、実際に国策実務を行う官僚たちさえあきれかえる状態だ。格差や貧困はなくならず、人として共存共栄する幸せは消滅してしまう。そして多くの人は皆が幸せは幻想でありえないと思い込んでいる。

さて「人生楽ありゃ苦もあるさ」昔TV番組「水戸黄門」の主題歌の歌詞だが、これからの世の中は「人生楽あらりゃずっと楽さ」あるいは「人生苦がありゃ苦が続く」なんて歌詞が相応しいとなりかねない。人は他の動物より知能が発達していてレベルが高いなんて嘘で、誰かが作ったお金第一主義のシステムに組み込まれ高みから見物され、弱肉強食させられていることにも気づかないレベルの低―い生き物というのが実態だ。じゃあどう生きていくのか。やはり政治に目を向け選挙で投票し国民が政治を監視する監査システムが必要である。企業や組織には監査があるように国の財政や施策にも民間代表が精査して年末の紅白の代わりに政府と国民が討論するとかが必要に思える。そして清濁や世の真実をディスクローズする必要がある。これができなければお金第一主義の苦の輪廻から何時まで経っても逃がれられない。人はそろそろ人生を苦の輪廻から、幸の輪廻にレベルアップして、そこに留まることなく更に高度な幸や真理を学ぶ必要があると思う。人間よ、いい加減幼稚園レベルの比較や競争、喧嘩は止めて互いに異なる事を受け入れて共存共栄しようじゃないか。

この時代変化をどう捉えて生きていくか。 ブログスタート!

  もう十年近くなるだろうか、私はブログではないがSNSのGREEで自分の意見を書いてはオープンにして見知らぬ人ともコミュニケーションをとっていたのが仕事もプライベートも忙しくなり、またその時は新しものへの興味からやった軽い気持ちもあって自然にフェードアウトした。そして、昨年から今この期に及んでも世界はパンデミックに怯え、踊らされてい中、何か自分の思いや考えあるいは情報が人の役にたてればとブログを書くことにした。  
 諸行無常とはよく言ったもので歴史を見ても世の中は常に変化し、日本は戦後70年間発展し、経済的にも何度か落ち込みがあったものの何だかんだ言っても他の国に比べると恵まれてきた。そして今回はどうか。今までのような国単位の経済状況の立て直しでなく新型コロナという何とも不可解かつ不自然な事象で世界の経済構造そのものが変わろう、変えようとしているように思える。これは大転換でこれからは、生き方や価値観そのものを変えなけらばならないのかもしれない。仕事をしてお金を得てそして日々暮らすごくあたり前がそうでなくなる。
世界は平等ではない。今、貧困で食べるものがない仕事もない希望も持てない人が大勢いる一方、食べ物や必要なものは充分揃い余分なものを溜め込み、食べ物は余して捨てる。実は今の技術や流通力があれば、そのあまりにかけ離れた貧富差や矛盾は解決できるはずがやらない。エネルギーも化石燃料に頼らずとも自然再生エネルギーで代替できるがやらない。何故なのか。
 私たちは教育で型にはまる事が良い外れる事が悪いと教えられ、体制という枠で生きてきた。そして与えられてきた体制は常に正しく、それに従っていればか良かったが、ここにきてその体制は脆く実は意図的に偏らせたものであることがわかってきた。 しかし、ずっとマュアル通りに生きてきた私たちはフレキシブルかつ柔軟に対応する力がなく、もっともらしい常識というルールを教え込まれて思考する事さえも停止してきた。これからはそうはいかない。ただいきなりこれから世の中を良くすると独り頑張ってもこれまたうまくいかない。不器用人ならなおさらだ。だからせめて自分やその周りの人や共感者と力を合わせ生きていくしかない。こういったブログやSNS、YouTube等は自分の限られた世界だけでなく環境や立場の異なる人の考えを知り、ネットを介したコミュニケーションも取れるので視野が広がり、より俯瞰した見方ができようになる。            
本来、人の思いは普遍でも考え方、方法は様々で、それを学び更に練り直して発信できれば、時に人の救いや助け勇気をもたらす機会にもなりえると期待したい。