いただきますの心

日本では昔から食事をする前に手を合わせて「いただきます。」と言う。

これはその食事に関わった全ての物と事に対する感謝と生き物に対する敬意の言葉でとても意味は深い。まずはその材料となる生き物(動物や植物)の命をいただく事への詫びと感謝。そしてその命を私たちの代わりに猟や栽培収穫してくれた、それを運んでくれた人への感謝。最後はそれを料理してくれた人への感謝。様々な気持ちが含まれている。

昔、多くの時代は食料難で食べ物が少なく飢餓との闘いだった。そのために領土を奪うという戦争も多かった。ところが現代は多くの国は飽食で肥満が増え食べ過ぎによって命を脅かす生活習慣病が蔓延している。一方ではアフリカやアジア等未だ栄養失調で子供が亡くなる国もまだ沢山ある。今、食べれる事の幸せを噛みしめて「いただきます。」を言おう。そしてフードロスを減らし、何とか食料不足の国に供給できるように。鮮度を保つ冷凍技術や様々な輸送手段がうまれた昨今、その気になれば可能だと思える。

世界の人口は80億に迫ろうとしている。当然食料難が懸念される。たんぱく源として虫を食する話が現実化しつつある。贅沢は言えないが虫を食べたいとは思わない。そこは再生エネルギーと一緒で、本気になって世界で農業改革が行われれば解決する。しかし、食やエネルギー、医療等、既得権益を主張する強大な権力がそれを許さない。美味しい所はいつもその権力者が「ご馳走様」といって頂いてしまう。

誰もが「いただきます」「お馳走様でした。」と感謝を心の底から言える世界に変えていこう。

お盆という風習

今年は年明け早々に父を亡くして間もなく初盆を迎える事になる。今まではお盆はご先祖様や亡くなった親兄弟がこの世に戻って来られるので迎え入れる。お墓参りをして魂を迎えに行く。そしてその間は仏壇にお供えをしてお線香を焚いて過ごす期間としか思っていなかった。というかあまり意識する事もなかった。

改めてお盆の意味を調べて大体自分の理解に間違いが無い事はわかった。ただ初盆では白い提灯を飾り、あの世から初めて現世に戻る時の目印とするとは知らなかった。母が亡くなった年に購入した回り灯篭を組み立て夜には灯りを灯した。またこれは子供の頃、よく一軒家の玄関や軒先でキュウリやナスに割り箸を刺した何かの動物を模ったものを見かけたが精霊馬というらしく、キュウリは馬で早く魂をお招きし、帰りはナスの牛でゆっくりあの世へお帰りいただくらしい。食物を外に置くとカラスが来て食べ散らかすので代わりに馬と牛の折り紙を折って飾った。お盆は盆踊りなど地区によっても様々な独自の風習(九州の精霊流し等)があるようだ。できるだけそういう文化は後世にも継承していきたい。私は取り立てて日本人だからという表現は好きではないが、日本の文化を知りできるだけそれ守るのは賛成だ。

お線香を焚くと香りは悪くないのだが喉が弱いのでせき込んでしまう事がある。また意外とその香りはその場にある服や物に付くので気をつけたい。その香りはどうしても高齢者の香り(高齢者はお線香をよく焚くので)とされ、若者はそれを避けようとする傾向にある。実は昔、お線香は防臭や防腐、殺菌等の物理的な効果をもたらすものとして使用していたらしい。だから香りが強く付きやすいのだ。他にも清浄化や故人の食べ物として備えられる。今の住宅事情だとなかなか焚く事も憚れる。お盆やお彼岸のタイミングが良いところだろうか。ろうそくの火を灯した時にその炎が揺れるとご先祖様が喜ばれているとか親にそんな話を聞いた覚えがある。

さて、お盆を過ぎると夏もそろそろ晩夏となり、どことなく秋に向けて寂しささえ感じてしまう。特に肉親が亡くなったお盆にはその人との思い出を回顧して今この世にいない寂しさが一層つのる。しかし、これも諸行無常、生あるものは必ず死ぬ。生きる時間はそれぞれだが、これだけは平等にやってくる。長短は問題ではなく与えられ限られた時間(人生を)

その間は一生懸命に生きようそして活きよう! 南無阿弥陀仏 合唱。

ゴールデンウィークを過ごして

毎年この時期の気候は寒さから解放され、春のうららかさが充分感じられて行楽には持ってこいのタイミングと言える。今年は例年より少し気温が低く、前半は雨模様で後半は比較的天気に恵まれたように思う。つい自然が恋しくなって車で近くの山まで走りたくなる。

行ってみると新緑が眩しく実に気分が良い。木々が暖かくなるのを待ちわびていたかのように新たな葉が芽吹き、それは黄緑で太陽の日を浴びると輝いて、生きてるぞと訴えかけてくるように思える。また野には様々な花が色とりどりに咲いている。ここから生命の営みの凄さが感じられる。植物だけではない。よく見ると小さな虫がうごめいている。地球上には様々な生命が息づいている。クジラのような巨大生き物から指で軽くつまんでも潰れてしまいそうな小さな虫まで。それは大小に関わらず人間と同じ一つの生命体だ。年齢を重ねるとそんな命が愛おしい。必死に生きているのは皆同じなのだから。動物が話をしてそれが理解出来たらどんなだろう。きっと人間の傲慢さや自己中なところに文句を言ってくるだろう。地球はお前たちのものだけじゃない。もっと自然や他の生き物も大切にしろと。

さて今年のゴールデンウィークはコロナ前とは言わないまでも、それなりに人出は多かったようだ。それぞれがどこへ行って、何を観て何を感じたのだろう。理屈は抜きで今生きていることに幸せを感じられたら、それはとても良いゴールデンウィークだったに違いない。

人の有難み 一瞬の触れ合い

相変わらずコロナに翻弄される日々。本日の感染者は何千人。先週よりも何倍多いと報道されては3回目のワクチンを早く打たねばヤバいと考える人は多いのではないか。

ワクチンにも充分リスクがあると思う。ワクチンで健常人が亡くなり、副作用もでる。少ないかもしれないが日々着実に起こっている現実。しかし、一切それはマスメディアでは報道されず、厚労省のHPでひっそりとアップされ因果関係は不明と表記。一部の人がそれをネット上で伝えて注意を呼び掛けている。とにかく国はネガティブな事を権力で封じ込めている。そのくせ強制ではありません自己責任です。これは明らかにおかしいのでは。

さて、私はメンタルケアでよく公園に行く。神奈川県の西部にある七沢自然公園もその1つだ。ここは車でないと行き難いせいか比較的人が少なく、低山ではあるが森林が多くて芝生の広場も点在するので、自然の気の巡りや気分が良い。芝生では簡易テントを張って昼寝をしたり読書をしたり、思い思いにくつろいでいる。家族で自然に触れ合う姿を見ていると、こちらも心が和む。山をベースにした公園なので起伏が多く、尾根伝いに軽いトレッキングが楽しめる。途中やけに木の根がむき出しになった道がある。

少し前の事だがそれが気になってスマホで写真を撮っていたら声をかけられた。「何を写しているのですか。」見ると地元の消防員の方だった。「この根が張った風景がめずらしいかなと思って。」すると「この根は浅いけれど、もともと地中に埋まっていたのが風と施設管理上、山蛭の隠れ家にならないよう掃いているうち根が浮き出てきたんですよ。」というお話。どうも最近は低山でも山蛭が出るらしい。かつてこの付近の山歩きをしていて知らないうちに蛭に血を吸われていたことがあった。蛭は鹿につくと言われるがどうも鹿や猪がこんな低山にも下りてきているようだ。「まだこの公園内で見たという話はないもののすぐ近くの山では熊も出ますよ。」「猿もいるし。」と親切に教えてくれた。そして蛭除けのスプレーを私の靴にかけくれた。「それではお気を付けて。」「どうも有難うございました。」と言って別れた。ほんの数分の人との触れ合いであったが何とも心地の良い時間だった。

今はコロナ禍でマスク装着なので籠った声から必要以外の会話はできるだけしない。知らず知らずのうちにコミュニケーション不足というストレスが溜まっていたのだろう。だから知らない人から声をかけられ、公園や山のありさまを語ってくれたのが心に染みた。電車やお店や通気の悪い密集環境でのマスクは理解できる。しかし外を一人で歩いている時マスクをするのはどうなんだろう。

「おはようございます。こんにちは。こんばんは。」基本的な挨拶も減っているように思う。何気ない声の掛け合いや語らいが、孤独感を癒し、人の優しさ有難さを教えてくれる。

幸せって何だっけ。

幸せは感情が心地よくなる事だよね。じゃあ、どんな時にそう感じたり思ったりするのか。 お金を沢山稼いで広くて豪華な家に住み、高級外車に乗って、好きな時に海外旅行に行って、美味しものを食べられて優雅に暮らす。これは確かに幸せといえるだろう。しかし、これが独りであったらどうだろうか。もちろん人付き合いが煩わしいから独りが一番という人はいる。しかし多くの人は恐らく楽しくても独りでは何か空虚ではないだろうか。少なくとも完璧な幸せとはいえないのではないか。幸せを感じられるのは、大抵は他者が絡むのではないだろうか。

贅沢をする事が出来なくても日々忙しくても、家族が健康でお互いを慈しみ、気にしあっている方が幸せを感じるのではないだろうか。それは家族でなくても友人でも良い。何か自分が努力して得られた結果であっても、必ずそこには他者の力が働いているし、支えがあっての事。仮に全て自分でやって成功しても他者の祝福や一緒に喜ぶ者がいた方がより幸せなはずだ。これは共感や同時体験というある種の親和性が充足を生むからだと思う。誰かが幸せそうな姿を見て祝福するのも幸せだろう。だから結婚式が成立してように思う。ただ表面上はそう見えてもひがみ根性が強ければ心の中で門出に不幸を願う不届き者もいるかもしれないが(笑)。

またもっと根本的な事をいうとお金がなくても衣食住が足りていたら、恐らく多くの人は幸せを見つける事ができると思う。それは生きる上での基盤であって食べられなくなる、住む家が無くなる、そういう不安がなければ恐らく自分の好きな事に注力し、自然環境と触れ合って生きていける。恐らく毎日に変化があって飽きることが無いだろう。農業などは正に自然が相手で気候次第で豊作もあれば、全くの不作もある。しかし最悪自分や家族の食べる分さえ確保できれば何とかなる。というか本来生きるとは自分や家族のため食べ物を調達するのに日々の大半の時間を費やすのが真の姿だ。これが文明や科学の発達で分業化され専門家されて、それ以外の仕事をするようになった。そしてそれらの多くは必需品どころか不要なものかもしれない。

さて、今新型コロナが世界を変え、社会を変え、価値観を変え、生活を変えようとしている。しかも幸せの大事なファクターである人との繋がりを遮断し、お金が回らなくなって多くの人の生活基盤は失われつつある。それでも生きるという原点に戻って考えてみると、自ずとやれねばならない事の優先順位は定まってくる。これからはAIやロボットが人の多くの仕事をやってくれようになる。人の仕事を奪われると考えるより、根本的なやるべき事に集中できるようになり、それは意外と幸福感を充足させるものになるかもしれない。コロナというピンチを人生を変えるチャンスと捉えて生きていこう。

きっと真の幸せがみつかるはずだ。