我々はどこから来、何者、何処へ行くのか

このフレーズはゴーギャンの絵画に描かれたものだが、誰しも一度はこれを考えるのではないか。人は何事にも意味を求める。何故、何故、何故。何故人間がこの世にいて何のために生き死んでいくのか。その意味を問う。それが人間の証だと思う。「人間は考える葦である」パスカル「我思う故に我あり」デカルト。またある人は言った。人の生き死に等、宇宙的に見ればなんの意味もない。これは現在あるターミナルケアをされている方で自分の体験から導き出された答えである。私はその言葉を聞いた時、一瞬反感を持った。人間の生き死に意味はない何と空虚で人生への感謝もないのかと。しかし、その人が言いたかったのは恐らく目の前で今、正に死にゆく人にかける言葉は、自分が何故死ななければならないかと問うて死に意味を求めるよりも、自然の摂理にしてただ生き死んでゆくものと受入れれば楽ですよと言いたかったのでない。

人は人生において思いもよらぬ事故や病気になった時、あるいは精神的に追い詰められた時いったい私が何をしたというのか。自分に降りかかる不幸や仕打ちにこんなに辛い思いをさせられる程、自分は他者(人だけでなく自分以外全て)に対して悪い事をした覚えはないとなる。それは因果応報という言葉に囚われているのから出てくる言葉なのかもしれない。仏教や他の宗教でも過去や過去生に行った事が原因でそれが自分にも返ってくるという。それは良い事であれば良い事で。悪行であれば悪い事で。もちろんそれを証明する術は無い。明確な答えなど誰も知らないし分からない。これも仏教思想だが人は輪廻転生を繰り返していて、過去生を思い出せる人はほぼいない。よって自分のした過去の因果と結びつけられても納得がいかない。一方幸せが訪れた時には、あまりその要因を考えない。こんなに幸せでいられて私は一体どんな良い事したのだろうかと考える人は少ない。つまり幸せはあって当たり前で、不幸は受け入れられないのだ。何と身勝手な生き物だろう。

しかし人は様々な経験を積み重ねてその人間性を高め成長していくという。それは今生きている世界においてははっきりしている。そして人は一人で生きていくではない。他者(人や神羅万象)に接して初めて学びを得る。当然その中には悪行もあり、それに気付いて二度とするまい、あるいは他者を見て自分はそんなことはしないと学んで成長していく、良い事をして人から喜ばれると自分も嬉しくなって幸せが得られると学ぶ。その学びのスピードはそれぞれでマイペースなのかもしれない。だから人と比べて自分が優れているとか劣っている等、何の意味もない。ただ、それをモチベーションにして自分を高めたいのであればそれはそれで良い。そして他者と比較して優れたとしても、おごるなかれ、侮るなかれである。それは相手を負かすためでなく、自分を高めるためのきっかけ、要因でしかないのだから。

もしこの世で本当に戦う争うべきものがあるとするならばそれは己自身であり、己の弱さと行き過ぎた我欲を抑える事である。何も常に自分を抑えて聖人君子にならずとも良い。大事なのはバランスである。この世は善悪、強弱、陰陽、高低、優劣、上下、左右等々選択肢は2つに1つとされている。その分け隔てがやがて争いを生む。我と他者は異なる。しかしそれは当たり前でその事、その在り方を認めなければならない。それができないから時に他者を自分の敵にしてあらゆる不幸が生まれる。更に悪い事に第三者がその人間の習性を上手く利用して、画策してお互いを争わせ、その愚か者たちを自滅させる。そして利を得る。何と虚しい。何と馬鹿げた話であろうか。この世はそれが繰り返えされている。もちろん、こういう話をすると極論をいう人が出てくる。それじゃ殺人者や盗人や暴力をふるう犯罪者をお前は認めるのか、そのままにしておいて良いのか。そうではない。それはそれ以上犯罪をさせないよう知らしめる必要はある。自分がその身になるとどれだけ辛く苦しいかを認識させねばならない。その上で更生の道も作らねばならない。もちろん簡単ではないし、大変な事だがそれは必要だ。

右でも左でもない、どちらでもない共にバランス良く備えるために、それを本当に理解するために人は生きているではないか。東洋ではこれを「中庸」という。今や量子コンピュータは1と0が同時に存在するシステムで飛躍的発展を遂げた。これは「般若心境」にも描かれている。この世の全てはあるようでない、ないようである。物質はやがて消滅するが、想念やエネルギー(魂)は消滅しない。そしてそれは常に成長を望んでいる。日本語で人の事を「人間」と書く。人は他者(人や自分以外の全て)と接して成長していくが、そこには間が必要である。「間」とは自分と他者の違いを知るための距離である。それを縮めたり、延ばしたりして時に同じと知り、異なる事も知って認め合う、それが人として学び続ける究極の課題であり、それが真に理解できたら、次の次元に進化できるのかもしれない。

Let`go to next dimension together  !

続・戦争はなくせないのか?

ここのところ中々、ブログを書く気も起らず焦燥感にかられていた。それは世界のあちこちで争いが増え絶えないからで、自分を含めた人の愚かさと無知さに辟易している。

人は戦争なんて誰も望んでいないとつい思ってしまうが、まずそこから疑う必要がある。本当にそうなのか。戦争が起こると得する人がいる。兵器の企業がそうなる。兵器の技術を競い合う企業にとって敵よりも優れたものを開発することで抑止力にもなり防衛という大義名分が立つ。使用せずともどんどん新たな技術で開発したものなら切り替えて売れる。人殺しの兵器を開発し販売するそれを生業にしている人がいるのだ。良心の呵責はあるのか聞いてみたい。兵器を持つことで相手を威嚇して平和になるとでも言うのだろうか。

そして宗教絡みになると我が神が唯一神であり、他神は認めない。これがやっかいである。イスラエル、パレスチナ問題。特に戒律が厳しい宗教は「ねばならない」ので、選択の余地は無い。唯一神を守るためには、他神教徒を殺害しても構わないと思っていてそれは聖戦であり正しい行為なのだ。そして大事な自分を犠牲にしてでもそれを貫こうとする。神は本当にそんな事を望んでいるのだろうかいやそんなはずはない。どんな人間にも生きる権利や幸せになる権利があって、そしてその生き方を導いてくれるのが真の神だ。だから宗教戦争はもってのほかである。勝手に神が望んでいると自分よがりに解釈した神への冒涜だ。

そして何故か生まれつき戦いが好きで喧嘩や暴力を日常茶飯事にしてる人がいる。そんな人は戦争と聞くと血が騒ぐのか。兵士になれれば幸せなのだろうか。

政治家にも戦争を好むものがいる。一旦国家権力を持つと思い通りに人やものを動かせるので民を使って侵略や略奪をさせる。逆らうものは国家反逆罪で捕まえ隔離して牢屋に入れられる。政治家は権力とお金が身に付くので止められない。指示を出して高みの見物をしていれば良いので、やりたい放題だ。しかもそういう者ほど私腹を肥やし贅沢三昧の生活で自分の幸せしか考えられない、民の苦しい生活や気持ちなど屁とも思っていない。

これら戦争を望む人に足りないのは、相手の身になってものごとを考えられない、人の痛みが分からない事である。これは人間としての決定的な資質の欠落と言える。普通なら自分にやられたくない事は他人にしないとなるはずだが、それが子供の頃に身に付いていないと平気で人を傷つけ、痛みを与えてしまう。むしろそれを喜びとするサイコ、狂人、病人だ。

さて、人は所詮そんな生き物だと諦めるのか。それとも少しでもそんな人を増やさないように社会や教育を変えていこうとするのか、ここが正念場かもしれない。愚かにも核戦争で自ら滅びるのか、それとも地球という自然の力に淘汰されるのか。あるいはAIが人は危険と判断し攻撃を仕掛けてくるのか。

私たち一人ひとりの知性や努力そして祈りがやがて大きな力となる。追い詰められても起死回生で素晴らしい世の中に変えていけると信じたい。

命の愛おしさ

いつになったら終わるのか戦争。ロシアとウクライナ戦争以外でも、国単位ではなく民族やはたまた資本主義を牛耳る一部の勢力が、爆弾ではない自然に見せかけた科学技術で私たちに気付かれないように戦争を仕掛けている。もう陰謀論でない。なかり明確になってきている。

金だけ。今だけ。自分だけを哲学とする輩がこの世に存在する。動物も食べるために他の命を奪う、家族を守るためテリトリーを守るために争い戦う。人も動物だからと、さも自然の摂理のような理由を付けて争うが、人には知恵がある。動物程に切実に捕食をせずとも、争わずに済む術を持ちながらそうしない。最もタチが悪いのは裏で仕掛けて自分以外で敵味方を作らせ争わせる。何と悍ましい。悲しいのはそれに気付かず争い、命を守るため落としてゆく人たち。

ロシアもウクライナの一般市民も戦争等したいはずがない。国のトップやメディアのプロパガンダに踊らされ次第に争いが争いを産み、本当に相手を憎みエスカレートしてしまう。本当は問題が発生したとしても、市民レベルではもっと冷静に平和的に解決できるのに。我々市民はもっと賢くなって、政治家や管理者を見極めていく知恵が必要だ。あらゆる方向や観点から判断して、時に譲歩やお互いが不可侵とする解決策を見つけなければ、そうしなければこの地球いや宇宙て最も愚かな生物になってしまう。

真実と真理を知り、それぞれの存在と命を愛おしもう。

お盆という風習

今年は年明け早々に父を亡くして間もなく初盆を迎える事になる。今まではお盆はご先祖様や亡くなった親兄弟がこの世に戻って来られるので迎え入れる。お墓参りをして魂を迎えに行く。そしてその間は仏壇にお供えをしてお線香を焚いて過ごす期間としか思っていなかった。というかあまり意識する事もなかった。

改めてお盆の意味を調べて大体自分の理解に間違いが無い事はわかった。ただ初盆では白い提灯を飾り、あの世から初めて現世に戻る時の目印とするとは知らなかった。母が亡くなった年に購入した回り灯篭を組み立て夜には灯りを灯した。またこれは子供の頃、よく一軒家の玄関や軒先でキュウリやナスに割り箸を刺した何かの動物を模ったものを見かけたが精霊馬というらしく、キュウリは馬で早く魂をお招きし、帰りはナスの牛でゆっくりあの世へお帰りいただくらしい。食物を外に置くとカラスが来て食べ散らかすので代わりに馬と牛の折り紙を折って飾った。お盆は盆踊りなど地区によっても様々な独自の風習(九州の精霊流し等)があるようだ。できるだけそういう文化は後世にも継承していきたい。私は取り立てて日本人だからという表現は好きではないが、日本の文化を知りできるだけそれ守るのは賛成だ。

お線香を焚くと香りは悪くないのだが喉が弱いのでせき込んでしまう事がある。また意外とその香りはその場にある服や物に付くので気をつけたい。その香りはどうしても高齢者の香り(高齢者はお線香をよく焚くので)とされ、若者はそれを避けようとする傾向にある。実は昔、お線香は防臭や防腐、殺菌等の物理的な効果をもたらすものとして使用していたらしい。だから香りが強く付きやすいのだ。他にも清浄化や故人の食べ物として備えられる。今の住宅事情だとなかなか焚く事も憚れる。お盆やお彼岸のタイミングが良いところだろうか。ろうそくの火を灯した時にその炎が揺れるとご先祖様が喜ばれているとか親にそんな話を聞いた覚えがある。

さて、お盆を過ぎると夏もそろそろ晩夏となり、どことなく秋に向けて寂しささえ感じてしまう。特に肉親が亡くなったお盆にはその人との思い出を回顧して今この世にいない寂しさが一層つのる。しかし、これも諸行無常、生あるものは必ず死ぬ。生きる時間はそれぞれだが、これだけは平等にやってくる。長短は問題ではなく与えられ限られた時間(人生を)

その間は一生懸命に生きようそして活きよう! 南無阿弥陀仏 合唱。

WE  ARE HUMANS !

テロや戦争が無くならない。人類の歴史は戦争の歴史といっても良いのかもしれない。

人は何故争うのか?少しでも相手より優位に立とうとするから?人が人を支配しようとするから?被害を被ったら、そのリベンジを果たそうとするから?戦えない腰抜けと思われたくないから?自国やその民や家族を守るため?侵入してきたものから領土を奪われないように守るため?人や国のためでなく自分が信じる神のため聖戦をする。そして兵器ビジネスの売上向上お金という利益を得るため……。戦争にはあらゆる理由が考えられる。

結果、戦争で人は死に住まいや人権を奪われ悲しみに苛まれる。戦争に犠牲はつきものだから仕方ないなどと、戦争を起こした当事者(政治家や軍師)がそれを言う。笑えるのはその当事者は最前線で先頭に立って戦わず、安全な場所で戦略を練り指示を出して、従順に戦うものを叱咤激励し、国の英雄として称える。民を巧みに操り自分の代わりに戦争をさせる。

国と人は違う。本当に人々は戦争を望んでいるのか。ウクライナの人はロシア人を恨み、ロシア人はウクライナ人が元々憎いのか。国やマスメディアの情報で煽られ、戦争が始まってお互い被害が出たので後から憎しみが生まれたのではないのか。どの国にも良い事する人もいれば悪い事をする人もいる。それを無理やり国という単位で一括りにして善悪を判断してしまう。

この世は各国の政治家や一部の大資本家で牛耳られている。それを世間では陰謀論という。 しかし資本主義が席捲する世界では構図としてそう考える方が自然だ。彼らは国のためなら民の犠牲はやむを得ないと考える。更に言うなら自分たちが住みやすい環境を作るためなら他人を犠牲にできる。死ぬのは庶民で自分たちではないのだから。彼らはこの世を支配するエリート選民なのだ。それじゃ選民であれば人の命をないがしろにしても良いのだろうか。そんな訳がない。

本来人は皆、出来るだけ争いを避けたい。生きていることに感謝し、他人を信頼し尊重して、譲り合えれば戦争はなくなる。そんな事はありえない、おとぎ話だと笑われようとも、我々は理性も道徳も文化も哲学も兼ね備えた人間なのだから、そうありたいと願う。

ゴールデンウィークを過ごして

毎年この時期の気候は寒さから解放され、春のうららかさが充分感じられて行楽には持ってこいのタイミングと言える。今年は例年より少し気温が低く、前半は雨模様で後半は比較的天気に恵まれたように思う。つい自然が恋しくなって車で近くの山まで走りたくなる。

行ってみると新緑が眩しく実に気分が良い。木々が暖かくなるのを待ちわびていたかのように新たな葉が芽吹き、それは黄緑で太陽の日を浴びると輝いて、生きてるぞと訴えかけてくるように思える。また野には様々な花が色とりどりに咲いている。ここから生命の営みの凄さが感じられる。植物だけではない。よく見ると小さな虫がうごめいている。地球上には様々な生命が息づいている。クジラのような巨大生き物から指で軽くつまんでも潰れてしまいそうな小さな虫まで。それは大小に関わらず人間と同じ一つの生命体だ。年齢を重ねるとそんな命が愛おしい。必死に生きているのは皆同じなのだから。動物が話をしてそれが理解出来たらどんなだろう。きっと人間の傲慢さや自己中なところに文句を言ってくるだろう。地球はお前たちのものだけじゃない。もっと自然や他の生き物も大切にしろと。

さて今年のゴールデンウィークはコロナ前とは言わないまでも、それなりに人出は多かったようだ。それぞれがどこへ行って、何を観て何を感じたのだろう。理屈は抜きで今生きていることに幸せを感じられたら、それはとても良いゴールデンウィークだったに違いない。

メタバースの世界

人類はいずれ肉体を捨て精神世界で生きる。一昔前こんな事を言おうものなら頭がおかしくなったと思われただろう。しかし、今はありえるかもに変わってきた。

仮想空間は技術の発達によりリアルに近づきつつある。VRは360度どころか装着した状態でどこを見まわしても必ず景色が広がっている。まさに仮想現実を体験できるのだ。ここに接触感覚が加わればもう超現実と言えるようになる。実際にそこにも着手され特殊なスーツや特殊な環境を生み出す部屋も開発されつつあるようだ。コロナで海外旅行に行きたくても行けない人にとってはきっと素晴らしいグッズになると思われる。もちろん、現実とは違い実際に行って良いも悪いも経験できる事は違うだろうが、例えばその場所のベストな状態を再現してくれるなら天候に左右されやすい景色、例えば気まぐれなオーロラがいつでも見れるとか雨や雪で寒い思い、灼熱の太陽を浴びて日焼けを気にすることもなく真っ白な砂浜にどこまでも続く天国のようなビーチの景色を眺めていられる歩ける等メリットは大きい。何よりも時間もお金もそんなにかからないはずだ。もちろん宇宙や別の星にも行ける。あるいは理想的な創造の未来世界や想像上の天国にも行ける。男にとってハーレムのような美女だらけの世界、その逆で女性にとっていけ面だらけの世界もありだろう。これらは娯楽の世界で現実がすさんでいると、この世界にのめりこむ人もたくさんでてくると思われる。              既にVRのゲームではそこにはまって疑似体験で様々なサバイバルやアドベンチャーが展開されている。

ビジネスの世界では、そこまでリアルでなくとも2次元的な空間で必要最低限のファイルやシステムで処理すべき事象を遠隔で行う。自分の代わりのアバターが名刺代わりになって仕事を行うようになるらしい。既にバーチャル世界では仮想通貨であらゆる商品売買が行われているらしい。そこにAIが入ってくれば放っておいても自分の代わりに間違いなく何でもこなしてくれる。AIアバターが自分の代わりに通貨を稼いでくれる。

考えてみればコロナ禍で自宅のPCや携帯と会社のPCあるいはクラウドにつなぐ事で既にメールやチァット、ズーム等のシステムで仕事をしている訳で、意識せずともネットという仮想空間、一種のメタバースを経験しているといえる。

さて、心配になるのはそんな夢の世界と現実のギャップに人は冷静さを保ちバーチャルとリアルのバランスがとれるのかという事。例えばバーチャルの世界で戦争や争いで人を傷つけたり殺害する等好き放題しているとそれがリアルでもエスカレートして犯罪が増えるとか。バーチャルでは理想の異性に会い何でもいう事をきいてくれるのにリアルでは否定や拒否をくらうと許せなくなる等。これはリアルの世界にアンドロイドという理想の異性ができるとリアルな人との恋愛がうっとうしくなり、最後は理性を失ったり悲劇を招くといったストーリーになりそうだ。自分は大丈夫と鷹をくくってはいられない。バーチャルとリアルの区別がつかなくなる、そんな世界が間近に迫っている。

メタバースが良くなればなるほど人はバランスを取るためによりシビアなリアルで生きねばならなくなる。何故なら自然や生身の人間と触れ合ってはじめて人は他者や生きる意味を理解できるからだ。

アメリカ映画に見る未来の暗示

私は学生の時代から映画が好きで、時間を見つけては映画館に足を運んでいた。学生の時は お金がないので3本建てで1,000円を切るような場末の映画館通いだった。映画はジャンルを問わず何でも見た。あえて言うならオカルト映画はできるだけ避けたが。

ハリウッド映画はお金がかかっているのでド派手で迫力もあって何も考えずに見るには最高だった。丁度若い頃はパニック映画が流行っていた。「ポセイドンアドベンチャー」や「タワーリングインフェルノ」等、豪華キャストで人間模様もしっかり描かれている作品で文明の発達でそれにあぐらをかいた人々に想わぬ落とし穴が待っているというストーリーだ。現実にそれほどの災難はなかったとしても規模の差こそあれ似たような事故は起こっている。

また未来を示唆したSF映画も見逃せない。スターウォーズは今でもシリーズで続いているが、未知との遭遇やET等は実際にありそうな話だと思っている。UFOや宇宙人の話は現実にも目撃情報は後を絶たないが、近い将来テレビでUFO母船が世界のあちこちに出現している場面が報道され、宇宙人との接触が明るみになるのではないかと期待している自分がいる。またマトリックスのように実は今私たちが存在する世界は真の現実ではなく、別に荒廃した世界があってそれが本当の世界。我々は管理された幻の世界を生きているという設定だが、これも物事を客観的に捉えるとあながち嘘だとも否定できない気がする。最近では現実世界はパラレルワールドで量子力学からも複数存在するという説が普通に語られている。

「タイム」という映画をご存知だろうか。2011年の映画だがこれこそ未来を予言するような内容だ。人類は富裕層と貧困層に分けられている。人は遺伝子操作で25歳以上歳を取らないが、貧困層は常に労働を強要され、それがポイントになっていて生きれる時間であり稼げず0になると埋め込まれた生命維持装置が切れて死がやっている。一方、富裕層は生まれつき使いきれないポイントを与えられ半永遠に生きる。ストーリーはそんな社会に嫌気がさした富裕層の1人が貧困層に自分のポイント譲って自殺。思わぬポイントを得た主人公が富裕層社会に乗り込み混乱を招くというある意味お決まりのパターンではあるが正に今の世の中を風刺し、これから管理社会に向かおうとする流れの行きつく先だと思う。他にもAIの自我の目覚めという危険性を示唆した「エクス・マキナ」等は、当然そうなると考えた方が自然に思える。SFの世界は傲慢な富裕層が作ろうとする理想世界のアンチテーゼ。

世界の超富裕層数人の資産は、それ以外の人の財産を合わせた総額の何倍もの資産を保有しているらしい。そりゃ世界を好きなように動かせる訳だ。これから世界的には人口が爆発し、食糧難になる。環境破壊が進むとなると超富裕層は思い切って人口を減らしてしまえ、それは戦争でも自然災害でも何でも良い。一応大義名分さえ立てばと。既にあらゆる事象でその方向へ持っていこうとしているように思える。

これが単なる映画好きのSFによる空想であり夢物語であることを願っている。

世代交代

父親がお正月に亡くなった。97歳だったので誰もが大往生でしたねとお慰めを言ってくださる。ほぼ老衰であったのでおっしゃる通りなのだが、本人は辛かったと思う。ここ1年半程施設のお世話になったもののコロナ禍で外出禁止、面談はガラス越し、景色は窓越しでしか見られず本人は「格子なき牢獄」と言っていた。後3年で三桁であったのでもう少し頑張れればと家族は期待をしていたのだが…。

人生100年時代。それは幸せなのか。体が元気で家族が傍にいてある程度自分の事は自分でできて、死ぬ数日前まで元気でいられたら、これは幸せだろう。しかし、実際にはほとんどの老人が夫婦でどちらかが欠けると独居老人になり子供がいてもあまり寄り付かず、身体は衰え何をやるにも疲れてしまい、あまり動かずただ目的もなくわずかな年金で細々と生きる(いや生きれない)。これは幸せにはほど遠い。日本は北欧等と違い国が老後を守ってくれる福祉国家、社会主義国家ではない。その代わりに税金が他国より安いなどというが、それはお金持ちだけが得する構造でしかない。

一億総中流主義などとバブル時代は浮かれていたが、今や貧富の差は激しく世界の先進国の中でも恥ずべき程に貧困層が多い国民となってしまった。頑張って経済大国となっても海外から圧力をかけられ潰されて、特に欧米にものを言えない政治家とそれを選んできた国民の自業自得と言えばそれまでだが、ただこのままでは若い世代の夢や希望は奪われ、日本は海外の食い物にされてしまう。次の世代が日本に誇りを持てる国づくり、単に長寿国でなく健国として自立した国家を築くことが大切だ。

自分は何年生きられるのかわからないが、せめて若い世代がこの国に生まれて良かったと思える国であってほしい。そして国民の一部(富裕層や高齢者)を大事にするのでなく各層を大事にバランスの取れた社会が作れるように、若者が声を上げる(上げなくでも選挙でその考えを代弁してくれそうな政党や議員に投票する)事を期待したい。