コオロギを食べる前にやるべきことがあるだろう!

最近、やたらと昆虫食が話題となり、コオロギが話題になっている。コオロギを食べる?誰が何のために言い出したのか?おかしな話だ。

ところであなたはゴキブリを食べたいと思いますか?コオロギとゴキブリは勿論違います。でも連想させるものがある。ゴキブリは生命力が強くどこにでもいて何でも食べて不潔て病気をも引き起こす可能性があります。昔TV番組のゲテモノ食いでゴキブリを食べて死んだという話を思いだした。理由は胃の中で卵を産みそれが孵化して胃袋に穴が開いて死んだとか真実は不明だがそんな話だったような。それに比べてコオロギは森林地帯に住み可愛く鳴いて食用に育てたものはって、おいおいちょっと待て。人口爆発で食糧難になって食べ物がなくなるからコオロギを食べる。話が飛躍し過ぎていないか。

そもそもこれは必須栄養素の蛋白質の補填と言われているが、牛やぶた、鶏といった家畜の限界が謳われ、特に牛はそのゲップや屁によってメタンガスが大量に放出するから地球温暖化の大きな要因になる。家畜を減らす牛を減す。そして、その蛋白源の代わりにコオロギで補填。飛躍し過ぎというか、もはや気狂い沙汰だ。蛋白源は植物の豆類からも取れるしお米にも入っている。またお魚にも豊富だ。アマゾンの人が蛋白源に芋虫を食するのは理解できる。日本でも地方ではいなごが昔から蛋白源として食されているが、コオロギではない。他の昆虫とかなら良いでなく、まずは米や畑の豆類の栽培、お魚の養殖を増やす検討か先だろ。昆虫は鳥や魚や爬虫類の食べ物。それを横取りするな!

てか日本はまず自給率を上げるため農業改革が必要だ。良質な食物を大量に生産し、国民に供給して過剰な分を海外に輸出できるようにするべきだ。農業従事者は高齢化して後継がおらずにやもうえず止めるのはもったいな過ぎる。休耕地も多い。いっそ農業大国になって国産原料を使用して得意分野である美味しい食を世界に供給すべきだろう。しかし悪魔の法律、種子法や種苗法が問題だ。アメリカや他の国の食品を輸入している場合じゃない。国産がコスト高なら国がその分補填すべきで何兆円も海外支援に使うなら、まず自国民を救うべき。

日本は今や貧困民が増え子供食堂ならぬ大人食堂になりつつある。政治家なら自国を隅々までよく見て、今の日本の現状を恥るべきだ。まず自国民を守る。当たり前の事ができない。情けない。私は日本人だし性善説を信じたいが、何でもかんでも国のいう事が正しいと思ったら大間違い。SDGsとかのもっともらしいスローガンにも騙されないようにしたい。

国民はよく考えて意見を発しよう。そして間もなく地方選が始まるが、本当に国民を守ろうとする政治家に1票を投じたい。日本国民の人の好さが悪用され、それが失られないように。

スポーツに想う

野球の祭典WBCが終わった。たった2週間程度であったがこれほど感動を凝縮したイベントも中々ない。自分も日本人だからというのを差し引いても大谷選手の活躍とその千両役者ぶりには驚かされた。彼を批判したり嫌う人は恐らくどこかひねくれた変人と言えよう。

ただあれだけ神的に扱われると、はめを外すこともできず、もしも女性との交際でこじれたりするとたちまち反動で裏切られたとかそんなろくでなしとは思いわなかった等と痛烈なバッシングを受ける事になる。そこだけは男だけにハニートラップには気を付けてほしい。 

WBCに限らずサッカーワールドカップやオリンピック等スポーツの大会は見ているとのめり込む。選手は純粋に全身全霊をかけてそれに臨んいるので、そこから醸し出される背景を創造するだけで人の琴線に触れる。期待通りに結果を出せた選手、思わぬ結果に終わった選手、期待以上の力を発揮した選手、様々だがそこには間違いなく力を出し切ろうとする純粋な一生懸命さがある。笑顔あり涙ありで理屈抜きで美しく、見ている人に感動を与える。

少し時間がたったが東京オリンピックで新たに加わった種目があった。空手、スケートボード、スポーツクライミング、サーフィン等。

この中でひときわ感動したのはスケードボードだった。まず選手が皆明るい。歴史も浅くルールはあっても特に習わしや伝統が重んじられる訳ではないので、それぞれが自由に自分らしく技を披露して競い合う。何より心の底から楽しもうというノリが良かった。そして世界ランクトップの日本の若い女子が勝負に出て大技をしかけるも着地に失敗して、いたたまれない様子を見た他国の出場選手が、その子を担ぎあげて賞賛した姿は素晴らしかった。恐らくその子にとって一生忘れられない思い出になると思う。正に本来のオリンピックの在り方を見せてもらった。

次のオリンピックを狙う人、引退する人、選手を続けるか迷う人さまざまと思うがオリンピックはやはりスポーツ選手にとって4年に1度の特別な大会であるのは間違いない。

ただスポーツに取り組む純粋な選手の頑張りを興行としてあまりにもお金儲けのために利用するのだけは止めてほしいし、できればその収益を世界の困った人々を助けるために使うようになるともっと選手やスポンサー、観戦者のモチベーションも上がり世の中を良くしていけると思う。また、国同士争うなら戦争などせず、代表選手がスポーツで競いあって終わったらノーサイド。お互いを尊重し称えあい、お互い譲歩しあえばきっと良い世の中になる。

最後に一言、これからもがんばれニッポン!頑張れ各国の輝ける選手たち!

世代交代

父親がお正月に亡くなった。97歳だったので誰もが大往生でしたねとお慰めを言ってくださる。ほぼ老衰であったのでおっしゃる通りなのだが、本人は辛かったと思う。ここ1年半程施設のお世話になったもののコロナ禍で外出禁止、面談はガラス越し、景色は窓越しでしか見られず本人は「格子なき牢獄」と言っていた。後3年で三桁であったのでもう少し頑張れればと家族は期待をしていたのだが…。

人生100年時代。それは幸せなのか。体が元気で家族が傍にいてある程度自分の事は自分でできて、死ぬ数日前まで元気でいられたら、これは幸せだろう。しかし、実際にはほとんどの老人が夫婦でどちらかが欠けると独居老人になり子供がいてもあまり寄り付かず、身体は衰え何をやるにも疲れてしまい、あまり動かずただ目的もなくわずかな年金で細々と生きる(いや生きれない)。これは幸せにはほど遠い。日本は北欧等と違い国が老後を守ってくれる福祉国家、社会主義国家ではない。その代わりに税金が他国より安いなどというが、それはお金持ちだけが得する構造でしかない。

一億総中流主義などとバブル時代は浮かれていたが、今や貧富の差は激しく世界の先進国の中でも恥ずべき程に貧困層が多い国民となってしまった。頑張って経済大国となっても海外から圧力をかけられ潰されて、特に欧米にものを言えない政治家とそれを選んできた国民の自業自得と言えばそれまでだが、ただこのままでは若い世代の夢や希望は奪われ、日本は海外の食い物にされてしまう。次の世代が日本に誇りを持てる国づくり、単に長寿国でなく健国として自立した国家を築くことが大切だ。

自分は何年生きられるのかわからないが、せめて若い世代がこの国に生まれて良かったと思える国であってほしい。そして国民の一部(富裕層や高齢者)を大事にするのでなく各層を大事にバランスの取れた社会が作れるように、若者が声を上げる(上げなくでも選挙でその考えを代弁してくれそうな政党や議員に投票する)事を期待したい。

人の有難み 一瞬の触れ合い

相変わらずコロナに翻弄される日々。本日の感染者は何千人。先週よりも何倍多いと報道されては3回目のワクチンを早く打たねばヤバいと考える人は多いのではないか。

ワクチンにも充分リスクがあると思う。ワクチンで健常人が亡くなり、副作用もでる。少ないかもしれないが日々着実に起こっている現実。しかし、一切それはマスメディアでは報道されず、厚労省のHPでひっそりとアップされ因果関係は不明と表記。一部の人がそれをネット上で伝えて注意を呼び掛けている。とにかく国はネガティブな事を権力で封じ込めている。そのくせ強制ではありません自己責任です。これは明らかにおかしいのでは。

さて、私はメンタルケアでよく公園に行く。神奈川県の西部にある七沢自然公園もその1つだ。ここは車でないと行き難いせいか比較的人が少なく、低山ではあるが森林が多くて芝生の広場も点在するので、自然の気の巡りや気分が良い。芝生では簡易テントを張って昼寝をしたり読書をしたり、思い思いにくつろいでいる。家族で自然に触れ合う姿を見ていると、こちらも心が和む。山をベースにした公園なので起伏が多く、尾根伝いに軽いトレッキングが楽しめる。途中やけに木の根がむき出しになった道がある。

少し前の事だがそれが気になってスマホで写真を撮っていたら声をかけられた。「何を写しているのですか。」見ると地元の消防員の方だった。「この根が張った風景がめずらしいかなと思って。」すると「この根は浅いけれど、もともと地中に埋まっていたのが風と施設管理上、山蛭の隠れ家にならないよう掃いているうち根が浮き出てきたんですよ。」というお話。どうも最近は低山でも山蛭が出るらしい。かつてこの付近の山歩きをしていて知らないうちに蛭に血を吸われていたことがあった。蛭は鹿につくと言われるがどうも鹿や猪がこんな低山にも下りてきているようだ。「まだこの公園内で見たという話はないもののすぐ近くの山では熊も出ますよ。」「猿もいるし。」と親切に教えてくれた。そして蛭除けのスプレーを私の靴にかけくれた。「それではお気を付けて。」「どうも有難うございました。」と言って別れた。ほんの数分の人との触れ合いであったが何とも心地の良い時間だった。

今はコロナ禍でマスク装着なので籠った声から必要以外の会話はできるだけしない。知らず知らずのうちにコミュニケーション不足というストレスが溜まっていたのだろう。だから知らない人から声をかけられ、公園や山のありさまを語ってくれたのが心に染みた。電車やお店や通気の悪い密集環境でのマスクは理解できる。しかし外を一人で歩いている時マスクをするのはどうなんだろう。

「おはようございます。こんにちは。こんばんは。」基本的な挨拶も減っているように思う。何気ない声の掛け合いや語らいが、孤独感を癒し、人の優しさ有難さを教えてくれる。

数か月ぶりの投稿

古いパソコンで投稿画面が真っ白になってうまく操作ができず暫く投稿ストップしていました。

これからまた復活し、コンテンツを増やそうと思います。

悪しからず。

幸せって何だっけ。

幸せは感情が心地よくなる事だよね。じゃあ、どんな時にそう感じたり思ったりするのか。 お金を沢山稼いで広くて豪華な家に住み、高級外車に乗って、好きな時に海外旅行に行って、美味しものを食べられて優雅に暮らす。これは確かに幸せといえるだろう。しかし、これが独りであったらどうだろうか。もちろん人付き合いが煩わしいから独りが一番という人はいる。しかし多くの人は恐らく楽しくても独りでは何か空虚ではないだろうか。少なくとも完璧な幸せとはいえないのではないか。幸せを感じられるのは、大抵は他者が絡むのではないだろうか。

贅沢をする事が出来なくても日々忙しくても、家族が健康でお互いを慈しみ、気にしあっている方が幸せを感じるのではないだろうか。それは家族でなくても友人でも良い。何か自分が努力して得られた結果であっても、必ずそこには他者の力が働いているし、支えがあっての事。仮に全て自分でやって成功しても他者の祝福や一緒に喜ぶ者がいた方がより幸せなはずだ。これは共感や同時体験というある種の親和性が充足を生むからだと思う。誰かが幸せそうな姿を見て祝福するのも幸せだろう。だから結婚式が成立してように思う。ただ表面上はそう見えてもひがみ根性が強ければ心の中で門出に不幸を願う不届き者もいるかもしれないが(笑)。

またもっと根本的な事をいうとお金がなくても衣食住が足りていたら、恐らく多くの人は幸せを見つける事ができると思う。それは生きる上での基盤であって食べられなくなる、住む家が無くなる、そういう不安がなければ恐らく自分の好きな事に注力し、自然環境と触れ合って生きていける。恐らく毎日に変化があって飽きることが無いだろう。農業などは正に自然が相手で気候次第で豊作もあれば、全くの不作もある。しかし最悪自分や家族の食べる分さえ確保できれば何とかなる。というか本来生きるとは自分や家族のため食べ物を調達するのに日々の大半の時間を費やすのが真の姿だ。これが文明や科学の発達で分業化され専門家されて、それ以外の仕事をするようになった。そしてそれらの多くは必需品どころか不要なものかもしれない。

さて、今新型コロナが世界を変え、社会を変え、価値観を変え、生活を変えようとしている。しかも幸せの大事なファクターである人との繋がりを遮断し、お金が回らなくなって多くの人の生活基盤は失われつつある。それでも生きるという原点に戻って考えてみると、自ずとやれねばならない事の優先順位は定まってくる。これからはAIやロボットが人の多くの仕事をやってくれようになる。人の仕事を奪われると考えるより、根本的なやるべき事に集中できるようになり、それは意外と幸福感を充足させるものになるかもしれない。コロナというピンチを人生を変えるチャンスと捉えて生きていこう。

きっと真の幸せがみつかるはずだ。

諸行無常

昨年来、新型コロナ禍のパンデミックで世の中は翻弄され続けている。テレワークが進み多くの人は家で過ごす時間が増えて生活が一変した。もちろん企業や業種によって特需で巣籠りどころか休む間はない所もある。人々は当たり前のようにマスクをして外を歩いている。そしてできるだけ近づかないよう距離をとるソーシャルディスタンスだ。間もなくワクチン接種が叶いそうだが元の生活に戻れるのか。恐らくそうはいかないだろう。政府もこれを機に週休3日や就業の仕方を変える働き方改革を一気に進める意向のようだ。人生100年時代。これは老後をゆっくり過ごして長寿を楽しもうというのではなく、できるだけ長く死ぬまで働いてもらおうという事らしい。確かに人口の年代別の分布図から見ても高齢者が多く頭でっかちな形で不安定。構造上高齢者を支えるはずであった中若年層が少ないから経済的に自分で自分を支えなければならない。

日本はかつて外国が羨む理想の社会(社会主義的資本主義、護送船団社会)であった。そして幸福の意識度が高い北欧社会のように税金は高くとも国民のため教育費は無料、老後はお金の心配無く安心して暮らせる福祉社会も実現できた。しかし、そこに舵を切らなかった。結果一億総中流どころか貧困になってしまった。もちろん一部は貧困層の生き血を吸って潤っている者もいる。お金がお金を生みお金がなければずっと貧しく貧富の差は広がる一方だ。恐らく日本人は政治に何も求めていないのではないか。多くの国民は会社員で税金をしっかり払っているのにその意識が無い。自分で税務署に払いに行けばもっと政治に関心が向くと思う。こんなに払っていて一体何をしてくれるのか。直接自分に返ってこなくとも弱者を救えているのか、公共事業が真に役立って社会や文明の発展に貢献できているのか等少しは考えるのではないだろうか。本来マスメディアがそこを監視し指摘して、国民に情報開示をすべきところを政府に脅され骨抜きにされている。その政府はというと外圧で首根っこをつかまれ外国の言いなりになっている。何も外国と喧嘩しろとは言わないがせめて舐められないように主張すべきはして矜持を持って外交をしてもらいたい。といっても政治家や政党を選んできたのは私たち国民なので、政治は民力の現れなのかもしれない。日本人は謙虚になりすぎて自信を失っているのだと思う。

どんなに世の中がおかしくなろうとも春になればまた桜が咲いて風が吹けば花は散る。こんな危うい世の中に生まれてくる命もあれば去り行く命がある。常に世の中は移り変わり、一時として止まることはない。諸行無常だ。大きな変化と小さな変化が繰り返されてきた。 しかし、それはけっして空しいものではなく、より幸せになるための真理に近づくための道であって歩み続けるしかない。人が世の中をおかしくしても、人と繋がりがあるから救いとなって歩んでいける。日々反省でも、0.1mmでも良いから前を向いて歩こう。きっと素晴らしい世界が待っている。

巣立ちの時

動物はその時期が来ると必ず親から離れて独りで生きていく。それまでは親兄弟と暮らして親の狩りの様子や外敵から狙われても保護下にあるので何とか守ってもらえる。人も本来動物と同じはずだが、必ずしも親元を離れなくとも実家で独身を貫く人もいる。しかし親は心配になる。親はいつまでも子供の面倒を見ることはできないからだ。だからよく聞くのが身体に障害がある子を持つ親は自分の目が黒い内に一人でも生きていけるようにわざと厳しくするという。 私はどちらかというと親離れ、子離れにも時間のかかる方だと思う。

子供は二人いて男兄弟。昨年まで下のが家を離れ名古屋で勤務し帰ってきたと思ったら、今度は長男が大阪勤務となる。どちらも離れる時はやはり寂しいものである。特に男同士お互い普段から多くを語ることはないが、そこは親だからどこかで様子を気にしている。独りで大丈夫か。社会に順応するだろうか。無茶をしていないかといらぬ心配をする。親になって初めてその気持ちがわかる。自分も両親にそんな心配をかけてきたのだろう。

さて子供を心配するよりいよいよ自分の今後の生き方を考えねばならない。私は会社から巣立ちをしなければならない。間もなく定年なのだ。その後の雇用もこういうご時世なのでどうなるかわからない。人生第2幕の始まりだ。自分のやりたい事をして生きるあるいはより社会に役立つボランティア的な考えも湧いてくる。年金はあてにならないので自力で稼ぐ必要がある。サラリーマンは給料日になると自動で定額のお金が銀行に振り込まれる。それによって毎月の住宅ローン、水道光熱費が払える。食費も確保できる。多少のこずかい遊興費もある。ところが辞めた途端、それがいきなり0になる。つまり生活基盤が無くなるのである。自分で現在の給与分を稼ぐのは容易い事ではない。それでも生きていかねばならない以上何かしらお金を稼ぐ方法を見つけねばならない。

コロナ禍で今後のビジネスは今までと変わる。このブログではないがコミュニケーションツールはネット依存型となり、バーチャル社会で多くの事が済むようになる。私はそれを良しとしないがこの流れは止められない。但し、そのことによって逆にリアルの重要性が高まると思われる。いずれにしても物事はどちらか一方に偏るとバランスが崩れるのでバーチャル同様、如何にリアルを進化させるかにかかっている。そこにビジネスのヒントがあると確信しつつ、自分ができる事でそれが何かの確信がまだ持てずにいる。今、確信を見つけようと努力している。しかし時間的なリミットがある。もし時間内にそれができなくても巣立ちせねばならない。もしかすると確信などただの幻想かもしれない。

恐れるものは何もない。後は勇気と希望を持って、明るい未来に向けて羽ばたくだけなのだ。

コックピット

ペットを飼っていると気づくと思うが、必ずいつも収まる場所がある。部屋の隅なのか猫なら箪笥の上なのか、その場所は恐らくどこよりも心安らぎ落ち着く聖地なのかもしれない。人にもそれぞれにそういう場所があると思う。それは必ずしもMY HOMEの中とは限らない。

私の場合はMY CARのコックピット、運転席である。何故コックピットと表現するかというと運転席では単に車を操作するだけの無機質なスペースに聞こえるからで、コックピットといった方が包まれ感があってより自分と一体化した空間に思える。以前に乗っていた車は妻が子供を送る、両親や家族を乗せて旅行に行く、多くの荷物を積んで子供をキャンプに連れていく等、とにかく使い勝手の良い車という事でミニバンだった。非常によくできた車でほぼ10年、10万キロ以上乗っていてもほとんど故障することなくきびきびと小気味よく走ってくれた。そして子供も社会人になり、妻も子育てから解放され車を運転する事もなくなって、次の車の買い替えを考えた。若くて独身の時はお金はなかったが、マニュアル車で中古でも馬力があってエンジンサウンドの良い速い車に乗っていた。とにかく車の運転が好きで全国の知らない土地や道を走るのが好きだった。またデートやゴルフをするにも車は必需品だった。全国を津々浦々を回った訳ではないが結構あちこちへ行った。

今、再び自分のためだけに車を買う。世はSUVが全盛だが結局スポーツセダンを選んだ。よりスポーティな2人乗りのクーペも考えたが、やはりゴルフや仲間と出かけるには5人乗りが良い。爪に火を灯すようにわずかな自分の小遣いをせっせと貯めてやっと買った中古車。それでも私にとっては大切な宝ものである。洗車もまめにして自分でコーティングし車中もできるだけきれいにして乗っている。自分のオリジナリティを出すのに目立たない程度に内外装に手を加えている。そして自己満足しながらドライビングを楽しんでいる。 

土日時間があればお気に入りの曲をiPhoneに入れ、それを接続して聞きながら湘南や伊豆、千葉、奥多摩等を転がしている。何と贅沢な時間だろう。ただ、時より地球環境を考えると排気ガスを出して走ることに後ろめたさを感じる事もある。地球環境よ皆様許してたもれ。   実は我家にいても落ち着かないので、例え車を走らせなくともコックピットに座るだけで心が安らぐ。白いシートに包まれ黒レザーのハンドルを握ると何とも気分が良い。ここが私の聖地なのだ。プッシュボタンでエンジンスタート。調子も良い。心の向くまま気の向くまま、さぁ、今日はどこまで駆け抜けようか。

台所

私は昭和生まれ。自分の両親は典型的な昔の日本社会の縮図のような関係で、父親は男だから外で稼いで家に帰れば「飯、風呂、お茶」といった感じ、母親は専業主婦で家を守り子供を育てるのが役割だった。だからと言って何でも父親の言いなりに従うようなしおらしい母ではなかったので、お互い引かずの夫婦喧嘩が多々あったのを覚えている。料理はというとたまに休日父親が焼うどんや炒め物、好き焼、鍋奉行はやっていたが、ほとんど台所に入ることはなかった。男子厨房に入るべからず、母親も家庭の料理は女の仕事と思い込んでいたように思う。そんな訳で私は結婚するまでほとんど料理をしたことがなかった。興味もなかった。しかし、今の時代そんなことを言っているようでは結婚生活等できようはずもない。よほどお金持ちで余裕があって、しかも女性が家庭に収まることを希望しなければ共働きは普通。夫婦ダブルインカムでやっと生活が成り立つといった家庭も多いと思う。当然男(旦那)は家事をしません、料理はできませんなどと言っていられない。今の若い男性は育メンとか主夫をも厭わないようだ。しかし今だからこそ言える。それは正しい在り方だと。

ところで私が料理をするようになったのは結婚をして20年程たってからか。それも妻が大病を患い入院して、その間子供たちの面倒をみる上で必要だったからだ。恐らく最初の内は食べられればOK程度で子供たちも我慢していたようだ。それは後々にわかるのだが。何しろあまり作った事がなかったので仕方がない。それでもやっているうちに慣れて、妻が退院して主婦に復帰してからも週末の1日は必ず夕飯を作るようになった。そして毎日料理を作るのは大変なのが良くわかった。献立を考えるだけでも面倒だ。同じものも飽きるし、かといって料理好きでもないので、つい一般的なもの自分が食べたいものになってしまう。歳をとると肉より魚、野菜が食べたくなる。あるいは油を使う焼き物より煮物とか。まさに母親の作る典型的な家庭料理で出汁のきいたあっさりしたものが食べたくなる。残念ながら何年も前に母は亡くなり、その味付けの秘訣は分からず終いだが、今でも再現できないものかと思う事がある。料理も慣れてくるとレシピ等見なくともあれとあれを混ぜればきっと合う、ああすれば美味しくなると頭の中で計算ができるという。まだそのレベルには程遠いが。今は夫婦揃っていても、いずれはどちらかが先に逝く。おかげさまで、もし妻に先立たれたとしても自分で料理が作れるので何とかなりそうだ。掃除洗濯も問題はない。「女やもめに花が咲き男やもめに蛆がわく」と言われないようこれからは男も厨房に入り浸って妻を唸らせるような名シェフになるなんて想像する。それもまた楽しからずや。